昨晩、とある流派の師範からご自身が出稽古で偉い先生方から頂いた評価を文章にされたモノをみせて頂き、「どう思われますか?」と問われた。
A4の用紙✖️3枚には、細かく指摘された事が書いてあった、宗家が変われば指導の仕方も変わってしまう?大概は、安易な方・・悪い方へ変化しているのではないか?と思っている。
私の経験上、出来ない人達が振りかざして来るのは、書かれたモノ・・「ここに、こう書いてある。」
「阿保!?」道から逸れない事を前提とすれば正解なのかも知れないが、誰もが読んで納得して終わる様な簡単なモノで、本来の武道がなしえるとは、到底思えない。
書かれてある事は、初心者が読んでもわかる道の上の事ですね。
それに拘る程に、自分達のやっている武道武芸を小さくしてしまっている。そう言う人に限ってバランスの悪い解釈を押し付けて来るモノだ、隙間だらけ・・最悪なんだわさ😓😓😓
何百回も書いていますが、「稽古とは古に学ぶ事」
先人達が残して下さった叡智に感謝して、足元にも、及ぶ筈が無い先人に感謝し、謙虚に稽古する自分をつくりあげて行かなければなりません。
偉い人程、稽古から遠ざかるから稽古で学んだ大切な心からも離れてしまう。
本来の意味での武道が、活かされていないのです。
そして、きっと真っ直ぐに切れない事でしょう😁😁😅
私もかなりの長文でお応えしたが、多分一番、
的を得た回答は、「難しく厳しいところが、本来の所作である筈です。」・・と、言う事。
富山藩指南役だったと言う黒田鉄山師範家では、剣術、棒術、体術の免許を取られた方でも、選ばれた方しか居合の指導を受ける事が出来なかったと、書いてありました😱😱😱
新陰流は、剣術から兵法や位、間や拍子の大切さを学びます。
ところが、私が居た頃から技の事ばかり😓😓😱😱
私は思うのです
「技は心の位の如く顕れ、心の成長の如く完成されて行く」
また、思うに
「武道稽古から間や拍子を学ばない心は、気遣いも疎かになり、斬られる事を待つ事となる」
私が出来ているかと問われたら疑問ではありますが、
稽古の過程で、心して居るかどうか、謙虚さや素直さが無い方々には無縁の話しであります😁😁👍