剣術回想 | 夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

人にはもともと自然からいただいた素晴らし能力が潜在しています。それは、すでに日常の生活に根付いている生活レベルの文化の中にあるのです。武道文化を活かし、さらなる可能性を・・眠っている潜在能力を開発する。「気」という世界観は、武道文化の中に眠っています。

尾張新陰流兵法補佐、長岡房成先生は、石舟斎・兵庫助・連也等の口伝書の

解釈を職とされていた。

尾張二代光友公からの命であったそうだが・・。
↑(ここは、間違いです🙇‍♂️🙇‍♂️

 名は房成。通称は惣三郎・五左衛門。桃嶺は号。長岡佐助房吉の養子となり、寛政六年(一七九四)家禄二百石を継いで馬廻、ついで寄合に列する。養父の房吉は尾張柳生家五代・柳生六郎兵衛厳儔の三男で、長岡五左衛門房英の養子となった人だった。桃嶺は家芸の剣術を修めるとともに、養祖父・房英より柳生制剛流居合術を伝受して指南した。尾張柳生本家の当主(道機斎厳春)が没したとき、その嗣子が幼少であったため後見となり、藩の師範を代行していた。天保四年(一八三三)隠居して家禄を子権六房懼に譲る。桃嶺は、また学問を好み、詞章にも深く通じていた。嘉永二年八月十三日没、八十六歳。法号は仙寿院真源桃嶺居士。

その長岡先生が、今、尾張新陰流で主に稽古している勢法(試合型)を考案された。

まさに、天才・・。

当時宗家が、兵庫助だったのか・・連也だったのか定かではないが・・

その時代まで無かった上段の構えを初めて世に出したのは尾張新陰流であり、

その上段の構えを「雷刀」(どこに堕ちるかわからない)と名付けたのは連也である。

連也は、島左近の娘・珠(兵庫助の後妻)と兵庫助の間に生まれた・・

当時、連也の天才ぶりは、麒麟児とまで評されている。

私の新陰流の稽古では、

相雷刀八勢法・中段十四勢法・下段八勢法・大転三勢法・大転変十三勢法・雷刀打中・下段七勢法

雷刀抑敵位八勢法・の六十一本・・使太刀の使い方と打太刀の使い方を合わせれば、百二十二本の

勝ち口を学んで居る。

新陰流の表太刀と呼ばれているのは・・三学円之太刀・九箇之太刀・燕飛の三つだが

燕飛以外は打・使太刀ともに学んだ。

五本・九本だから二八本・・と・・・百五十本の勝ち口を学んだ事になる。

三学円之太刀が新陰流の最上の型になるから・・その型を完成させる事が、勢法を

学ぶ大切な意味合いで・・。

この素晴らしい剣術兵法を、次の世代に残す事こそは、日本武道にとっても

大きな意味を持って居ると感じて居るが・・。

今の、会の稽古では到底・・型の真似事で終わってしまう事で・・真髄を相伝して行くことはないだろう。

先代の一番弟子・二番弟子のお二方こそは・・私の恩師であるが・・そのお二人がまだまだ稽古に

熱心であり・・まだ竹刀を充分に遣える時に、指導頂いた事こそは、今の私に繋がっていると思う。

基本を叩きこんでくださったのは、二番弟子の鈴木さんであり・・妙・・奥深さを思考させてくださいったのは

一番弟子の坂さんだった。

坂さんは、すでに八〇歳を超えておられると思う・・何度も、病気で稽古に参加出来ない時があったが

克服され現在も稽古を続けておられるようだ。

私が入門した当時、四〇歳になったばかりの頃・・鈴木さんが六五歳・坂さんが六七歳か八歳だったはずだが

その二人に・・相雷刀八勢法の稽古を付けてもらうと・・肩で息をしているのは、私の方で・・どちらに稽古を付けて頂いても

涼しい顔で・・汗一つ掻かれていないのには・・胆を冷やしたものである。

当時、私は・・空手のNY修行(誠道塾本部道場、中村忠会長直接指導)で、
朝から晩までの一か月の稽古を終えた直後であった。

体力に自信があるというわけでは無いが、それでも、お二方の涼しげな顔が、あまりにも印象深く

その体力に、非常に驚かされた事を、忘れられない。本来の日本武道とはさもあらん、である。
これは、新陰流の稽古を続けてこられたから・・・と、言うしかない、ほんとうに素晴らしい武道由来の身体性の凄さをいまだ忘れる事はない。

大先輩お二方の斬り込み・・これは、初心者の頃は・・何も感じなかった・・むしろ、お二方とも身長が一六〇センチ前後で・・小柄・・なおかつ御歳が私よりかなり上・・通常私のような怪力が打ちこめばたじろぐ事も考えられる。

ところが・・他の先輩方は・・私の力の強さに・・加減を求める事も多々あったし、武道であってもそこを、求めてなんだか変な・・言い訳をする人もいた。

しかし、お二人だけは・・その様な事は一切いわない・・肩の力を抜け・・とは良く言われたが・・

強いから緩めろなどという事は言われた事は無かった。

私が、力を緩めると・・坂さんからは怒られた「手加減をするな!」

稽古をお願いすると・・「君は、手加減をするからなぁ」とも。。釘を刺された事もある。

三年位経った頃、ある日から、お二方の斬りの質が明らかに変わったのを思い出す。

何度、眼鏡を吹き飛ばされた事だろう・・。

坂さんが8メートル程先の前に立つと、身ぶるい?
なんだか、恐ろしい感じを身で感じた事も思い出す。

歩幅・歩数が、ぎくしゃくする、間が取れない・・すでに、空間は坂さんのモノだった。

その意味が、最近わかった、説明できる様になた場を支配する。
からくりの儗を解いた。

それは、宇城先生の道塾で気付かされた。

入門を許されてから、4.5年程たった頃、人が当てる事のできないシュチエーションで竹刀が相手を捉えるようになる・・。

諸先輩達は不思議がるが、誰もその謎を説く事ができず。
宗家、先輩方は私の力任せと言う事で、誤魔化していた。

そんな事はどうでも良かった。
私が、当てるのであれば、それを教えの中で当たらない様、稽古精進するだけだろう・・それが、先輩のプライドではないだろうか?

古流の最高峰の技術を学んで居るのに、教えをしっかりと心体に刻み込む稽古が足りないから、当てられる、私のせいに(訳の、わからない理由をこじつけて)するのではなく、謙虚であり素直で、なければならない。

それこそが、武道本来の道と言う教えではないだろうか?

しかし、誰も私の竹刀を除ける事ができないのだ。
それは、三学円の三本目の半開半行の打太刀でのシュチエーションである。

その後も、合宿前の外人セミナーでは、外人から避けられ・・

私は合宿でも、東京、大阪、海外の方々から嫌われるほどに腕を上げて行く。
私からすれば、私では無く、他の人が教えからずれて居るのだ。

坂さんや鈴木さんに刻みこまれた稽古とは、かなりのずれを感じて居る。

その差が分かるが、私と稽古をした人に説明してあげても何も理解できない。

理解できないという事は、その後の合宿で手合わせしても何も変わっていないという事・・。

厳しさだけが印象に残り・・本当の大切な所を感じない、見ようとしない気付けない、それだけの稽古しかできて居ないのだ・・。

と、言う事で三学円之太刀を使い合って、名古屋、東京、大阪、日本中で、私の上を取る事ができる人は、ほとんどいなくなってしまった。

坂さんも・・体調を崩し稽古に来られない時期が続いた。

私は、必然的に、稽古相手が居なくなってしまったわけで稽古を付けても、本当に、スローモーションの様に竹刀を扱っても、相手には、差し込まれて居る様に感じた事だろう。

差し込まれる・・。印象に残る竹刀使い・・・

ある時、二年ぶりくらいに坂さんに八勢法を観て頂いた時、
坂さんの竹刀が、差し込んで来るのを身で感じた事があった・・。

大きな振りではない、小さな細かな動きだったが、その竹刀の切っ先の速さにたじろいだ事を、思い出す。
私の、目標の一つだが・・そう言う事もここに書いても、皆様に伝わる事は難しい、私の体験上の宝と言って良いだろう。

また、ある時は、
鈴木さんが、稽古に来なくなる前・・久しぶりに坂さんと鈴木さんが顔をそろえた事があり、私は、嬉しかった事を思い出す。

鈴木さんに九箇を観て頂いた。

最期の型、叢雲(むらくも)で、私の構えが、なってないと叱られ、何度も・・こうだ・・こうだ・・と見本を見せられる・・こうだ・・こうだ・・と、

だが、求めておられる事は、非常に難ししく。出来ない・・・。

何度も・・何度も、何度やっても、求められる様に出来なかった。
坂さんからも、同じ様な稽古をつけて貰った事がある。
しかし、お二人が求めて来る事は、まさに極みなのだ。

鈴木さんとの稽古指導されて居るのを、坂さんが、ずーっと観ておられた。

稽古を付けてもらい、出来ないまま、坂さんの方に鈴木さんと歩いて行くと・・

坂さんが・・もう一度やってもらえ・・と・・・・言う・・。

そこで・・また、坂さんの前で、何度も・・何度も・・稽古を繰り返す・・。

私一人で・・構えを取って・・擦り脚で・・
と・・二人が・・私を無視して話をし出したのだ・・・
私が・・そこに、居ないかのように・・私は、蚊帳の外だ。

もう諦めようかと、思ったが、二人に向かって私は言って居た・・

「もう一度、お願いします!」恥を忍んで・・

と・・お二方が、こちらを向いて・・声をそろえて同じ事をおっしゃられた・・。

「そうじゃなきゃいかん!!」

そのお言葉こそは、尊い私の心の宝である。

私の心の宝・・、と、言えば・・

まだ間だ・・居合の型を憶えたばかり、一本目の向之太刀も、おぼつかない頃、

前宗家・延春先生の前で私は、気渾を込めて型を演じた・・。

その時、延春先生から頂いたお言葉が・・私を、新陰流に向かわせた。

「うん!!安心した!!!」

それから、二・三か月後・・延春先生は入院されました。
そして、翌年の五月の連休に他界されました。

私は、三日間ずっと、斎場を離れる事はありませんでした。安置の日も、一晩中、喪服を取りに一度自宅に帰り、その後、お通や葬儀が終わるまで・・

そんな事も、思い出しました。

良い修行をさせて頂き感謝ばかりです。
私の、武道はまだまだ続きます。
教えて頂いた、前宗家、現宗家、坂さん、鈴木さん、諸先輩方に御恩返しが出来るまで😁