ちょく、ちょく此の事を話題にしています。なぜ?
それは、私の能力に対する疑問から始まりました。
さほど、やって来ている事に差があるとは思いませんが・・やはり、少し他人とは違う。
そういう、自分を認識していく中で・・その答えは「血」の中にあるのではないか?
遺伝という事を思う様になります。
武道修行をして行っても、中々自分の思う処にはいけません。
どのような事、思いを目標にして行くのかは人それぞれです。
私が、特別であるとするなら
・・・他の人より早く目覚める事が出来た、目覚めさせるスイッチを押せたとするなら。
血を無視する事は出来ないのです。
私達の、父母世代は戦後を活き抜き必死で日本の国を再興させ、私達を育ててきました。
そこに、余裕があったのかなかったのか?自分の人生をお金に支配されてしまい、お金に執着する・・
そのような事も多々見られます。
それだけが、人生のすべての価値観であるというのは、私達の代わりに苦労をして来た父母世代には申し訳ないのですが、
私達が、いかに恵まれた環境で育ったのか・・・そうは、言っても・・小さな頃・・まだ父母が駆け出しの頃は、やっぱり厳しい事も
経験して・・犠牲になりながら・・我慢しながら過ごしていたと思います。
だから、お金に左右されない自分を持ち続ける事が出来る事を望んでいるのかもしれません。
だがしかし・・現実逃避なのかもしれませんね。「甘い」と言われても仕方がない事です。
さて、祖父母の家を守っている、伯父と話す機会が多くありました。
父母や、伯父伯母が知らない事もたくさんあります、興味がなければ調べない事ですから・・現実主義なんですね。
以前書いた事とは違う事実も分かりましたので、訂正していきたいと思います。
祖父母は、はじめ名張市の奈垣と言う処から名古屋三菱の大江工場に来たそうです。
父達も小さい頃は、港区の大江工場の側に住んでいました。
それから、祖父が尾張旭?四軒屋の辺りにあった、三菱の発動機関係の工場に赴任します。
それで、今の守山区に引っ越して来たそうです。
その工場の工場長を務めていたそうですが、敗戦後、工場は解体されました。。
私が、思うに戦犯者のリストに上がっていたかもしれません。
三菱重工小牧工場には、定年後?に守山から自転車で通っていたそうです。
それから、名張市奈垣にある祖父の実家・・大きなお屋敷だったそうですが・・
祖父の兄が継ぎました、宮大工だったときいております。
ここで、先日聞いた新しい事実があります。
曾祖父は、養子として跡継ぎがなかった山村家に入られたそうです、元々は、藤堂藩家老家(まだ調べれていません<m(__)m>)
からこられたそうです。幼少の頃でしょう。
昔の侍家にはよくある話ではありますが、家老家からの養子であればそこそこの、家格。
また、曾祖母の実家も御典医です。
このお正月に、名張の黒田(東大寺荘園)にある極楽寺を訪問し、ご住職からお話をおききしました。
このお寺を建立したのが、大江氏だったからです。このお寺は、いまだ東大寺二月堂のお水取りの為の
松明を東大寺に収める、由緒あるお寺です。しかし、このお寺、真言宗長谷寺派のお寺でした・・・???
父母から、私の先祖の菩提寺の元は、室生寺と聞かされていたのです。
極楽寺の住職のお話では、この辺りのお寺のほとんどが、長谷寺系で極楽寺の傘下だらか、室生寺とは関係がないはず・・
それから、丸に違い鷹の羽の家紋は‥この辺りの家の90パーセント以上という。
は?家の家紋は一般的な家紋?
違う・・・と、思う・・違い鷹の羽は‥武門の家の家紋として有名な家紋。
この地域の家紋にも、大きな影響を与える程のご先祖様たちだったのではないだろうか?
ここで、また一つ新事実が、発覚します。伯父とその話をしていると…伯父が・・
名張市奈垣にある真言宗室生寺派の妙楽寺は、祖父の義理の兄弟が住職として入られたそうです。
そのいわれは、奈垣の実家の壁補修に来ていた職人の親子、その息子を見込んだ曾祖父が
その子を養子に迎えて、室生寺に修行に出し、その後に住職としたそうで・・今の住職は、父や伯父の
従兄にあたり・山村性だそうで・・伯父は、話をしたことがあるそうです。
そして・・・極楽寺のご本尊も、妙楽寺のご本尊も不動明王様。
私の家にも、不動明王様が居られます。