人斬り剣奥義(津本陽著)身の位 | 夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

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人にはもともと自然からいただいた素晴らし能力が潜在しています。それは、すでに日常の生活に根付いている生活レベルの文化の中にあるのです。武道文化を活かし、さらなる可能性を・・眠っている潜在能力を開発する。「気」という世界観は、武道文化の中に眠っています。

今年(昭和六三年)の四月であったか、私は名古屋の白林寺と言う臨済宗寺院で、新陰流第二一世の柳生延春先生に

お目にかかった。

白林寺は尾張柳生家菩提寺で、犬山城主であった成瀬家の菩提寺でもある。

私は本堂で柳生氏の剣談をお伺いしたのち、あつかましくも新陰流秘玄とされている無刀取りの、手ほどきをお願いした。

地元のテレビ局がその様子を撮影した。

本堂屋根から、前日に降った大雪が融けて地に落ちる音を聞きつつ清爽の一時を過ごすのであった。

 

その際、私は柳生氏から、新陰流第五世柳生兵庫平厳包(としかね)が用いたふくろ竹刀と、琵琶木太刀をお見せいただいた。

厳包は晩年、尾張家光友公から隠居を許されてのち、剃髪して浦連也と号した人物である。

剣豪として、連也の名はひろく世に知られた。

私はひき肌の皮の袋に包まれた八つ割り竹の竹刀を手にとってみる。

さほどいあたんでおらず、引き肌の袋などは現代のものよりも丈夫そうである。

全体に頑丈なこしらえで、太目であった。

竹刀の手許にちかい引き肌部分に、墨で柳生笠の紋所が、図案のようにあざやかに描かれたいた。

「これは、どなたが描かれたのですか」

「連也ですよ。彼は手先が器用で、柳生拵えという装刀法を工夫したり、柳生鍔をのこしたりしたほどですからね。

こうした物を描くのも上手かったんですね。」

連也が七十歳で世を去ったのは、元禄七年(一六九四)であるから、三百年以上は経て居るはずであるのに、

手描きの紋はまあたらしくみえる。

 

「この木太刀も、連也がつかったものです」

私は手に取って、振ってみた。

濃い黄の肌色がつややかに乗った琵琶木太刀は、意外なほど細身で、花車(きゃしゃ)だった。

「これはかなり使いこんでいますからね。反りがきつくなっているでしょう」

柳生氏がおっしゃる通り、木太刀のものうちどころには、打ち合ったくぼみがいちめんにのこり、かなり反っている。

 

「琵琶の材質は丈夫ですが、長く打ち合っていると、やはり粘りがあるだけに曲がって来るのですね」

私は不世出の名人といわれた連也の木太刀を持てるのは、ありがたいと思いつつ、幾度も振ってみる。

「こちらの小太刀ですがね。これは連也が将軍家光の御前で、柳生宗冬と立ち会ったときに使ったものです」

「では、宗冬の右手親指打ち砕いた、血痕が残って居るのは、これですか」

「そうですよ、ここについているのが血の痕です」

私は全長二尺の小太刀を手に取って見た。

蛤刃の切っ先から二寸五分ほど下のものうちどころに、小指の爪ほどの打ちこみによる凹みがある。

血痕は、ものうちどころから手もとにかけて、薄墨のように点々とのこっていた。

切っ先の棟にも、粟粒程の血痕がある。

テレビ録画の時は、そうした説明をお聞きしただけであったが、後日、柳生氏から連也と宗冬の御前試合について、

興味深いうちあけ話をお伺いした。