本日の稽古は、雄剛と山内さん
基本稽古から・・しかし、最近は、やはり「心持ち」について話す事が多い・・。
心を、育てる事が、レベルの高い上達に通じると信じて居るから・・。
基本稽古の後は、基本稽古を主体にした一本組手・・
突きに対して・・どう受けてどう攻撃するか・・
蹴りに対して・・どう動けるのか・・。
受けてから、動いて居ては互角以下・・
動いて・・受けるは付属のものと言う感性が良い・・。
それから、間をあけない事・・一本終わった・・ふーでは・・間抜けになってしまう。
気が付かない内に、隙を作って居る事が当たり前の感性になっている。
型を観て居て・思う事・・・
何で・・一息つくのかなぁ・・・
その後の攻撃は・・速いようでも・・実は、間が斬れてしまっているから・・
間をあければ・・必ずそこに入って来ると・・思える自分を、稽古で創り上げて行く事。
さて・・先週の稽古で・・繋がりが繋がる事・・その力が強くなって居る事に気が付いた。
これって・・実は、剛の力・・を柔にして相手に伝えて居る感性・。
いわゆる気・・それが繋がって行く事。
私の力が・・足から手に伝わる剛の力を柔らかくする事で・・相手は、触れる程度で崩れて暮れます。
その繋がりを保てば・・その力は・・足を持った人にも繋がって行く。
これを、今日は中学生の雄剛にもやってもらった・・足を持つのは山内さんだが・・
私が手を離すと・・体をよじるだけ出・・決して投げる事はできない・
繋がりを作ると・・雄剛は、大人の山内さんを投げてしまうのだ・・。
逆に・・山内さんも繋がりをけすと・・かなり体重差のある雄剛を投げる事…強いていえば動かす事すらできない。
処が・・繋がりを造ると・・結果は、誰でも同じ・・・で・・雄剛は転がされてしまうのだ・・。
これが、再現性・・人が変わっても出来る・・。
いつでも、出来る・・・。
これは・・気と言う物があるという実証検証で・・そこに、技が入れば・・その技の完成度は間違いなく高いという事。
私は、そういう事を知らずに・・5・6年前から・・刀を斬り降ろして行く刹那の間の・・相手の腕の変化に対応し
相手の腕を斬っていた・・気持ちを込めれば(真剣身を持てば)ほぼ、90パーセント以上の確率で相手の手を
捉えてしまう。
ここに、欲はなく・・・斬ってやろうとか、当ててやろうとか・・・相手が憎いとか・・当てる為には?
とか・・・そう言う感性を全く持たず・・ただ、自分の出来る事・・
今在る技を、ありのままに出せる事のみを心の観念に持ち・・
切りに行くのだが・・・外れる事は、稀だった。
これも、気の世界観で言えば・・間と拍子と言う事になるのだろう。
あるいは、第三の目(上丹田)の発達による能力開花となるのだろうか。
しかし、それは・・出来る様になってから・・数年後に理解できる様になって来た事で・・
当初は、不思議だが認めざる負えない能力の開花としか・・説明が出来なかった。
それは、誰に教えて頂いた事ではなく・・・自然に身についた物だったから・・
そういう知識を持たずに、稽古修行をしてきたから・・
その過程においても・・欲を持つ事なく、
只素直に教えの中に身を置く事だけを意識していたと思う。
しかし、レベルの高い教えに接する事が出来た瞬間から、その事が説明できるようになり
自分の中で納得できる事として捉える事が出来る様になったし・・
それからの、進歩進化が・それまでの・・何年分かを取り戻すかのごとく加速したと言う感も強い。
宇城先生との再会・道塾での学びが・・停滞していた時間を動かし始めたのだと感じた。
いやいや・・それまでも・・色々な学びや稽古を積み・・修行の成果を出しては来ていた
自分の納得の行く事であったとは思う・・。
しかし、事理一致と言う事のスピードの速さは・・・
脳で考えながら・・変化を求める事とは比べものにならない・・・
何故なら・・わからない事をやって居る自分に良い結果が出て居るとは言え・・・
迷いが無いはずがない。
それは・・剣術の型の中であれば・・五本が五本とも・・完成度の高い物に変化し進歩して行ったという事で・・
私の繰り出す竹刀は・・なかなか・・受ける事のできない・・物になってしまっていた。
重いというのが、その評価だが・・結局、その重さが重力の世界観であり、
力(筋力)の世界観ではないといことを
なかなか、納得できないようだww
それから、その重力の重さには・・気迫がこもっているから・・・相手に恐怖観を与えてしまう。
委縮させてしまう・・
それは、なるべく面に出さない様に心掛けている・・・
先週の稽古でも、Mさんや山内さんは・・
私に間をつめられると・・びくっとなって・・後ずさりする・・様だったし・・・
IM君との稽古でも・・その様な事は認められる事だった。
竹刀を振りだすという事で・・筋肉を示すなら・・なりふり構わず・・型に囚われることなく振る事になるだろう。
普通に考えれば、決められた、姿勢の決められた形の中で・・どれほどに筋力を駆使しても、出せる力など大差がない。
それを、重いと思わせるという事は・・全身の働きの中に斬りがあり・その重さが竹刀に通じて居るという事であるはずだ・・
そういう感性が武道の本質を、稽古して行く中で磨かれる感性でなければおかしいと、私は思う。
それが、古流の中に根付く魅力の一つでなければならないとも、思う。
それを、自分の理解できない事は・・全て力・・
と言う事は・・自分が力しか使って居ないという事・・それ以外の力の出し方を知らないという事を
証明して居る様な物で・・
古流を学ぶという事が・・型だけ知っていれば・・と・・
軸がしっかりして居れば・・そうい竹刀を振れるとも思わないし
型の中で、教えの中で・・欲のない竹刀を振れる事を実践していくしかないのではないか
・・そうい次元・・レベルの高い教えを・・説いて下さるのが道塾での宇城先生だと確信している。
私の竹刀は、ゆっくり斬っても当たる・・・見た目ゆっくりなのに・・実は凄いスピード・・と、
言う感性はなかなか理解できないとは思うが・・
それが、重力の持つ一つ特性であり・・・働きといって良いのではないだろうか。
気の世界とは、重力の働きを自分の味方に出来る事から・・
わかり始める事の様に思う・・それは、後からわかる事なのです。