型だけではなく・・ | 夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

人にはもともと自然からいただいた素晴らし能力が潜在しています。それは、すでに日常の生活に根付いている生活レベルの文化の中にあるのです。武道文化を活かし、さらなる可能性を・・眠っている潜在能力を開発する。「気」という世界観は、武道文化の中に眠っています。

本日の稽古は、雄剛と山内さん

基本稽古から・・しかし、最近は、やはり「心持ち」について話す事が多い・・。

心を、育てる事が、レベルの高い上達に通じると信じて居るから・・。

 

基本稽古の後は、基本稽古を主体にした一本組手・・

突きに対して・・どう受けてどう攻撃するか・・

蹴りに対して・・どう動けるのか・・。

受けてから、動いて居ては互角以下・・

動いて・・受けるは付属のものと言う感性が良い・・。

 

それから、間をあけない事・・一本終わった・・ふーでは・・間抜けになってしまう。

気が付かない内に、隙を作って居る事が当たり前の感性になっている。

型を観て居て・思う事・・・

何で・・一息つくのかなぁ・・・

その後の攻撃は・・速いようでも・・実は、間が斬れてしまっているから・・

 

間をあければ・・必ずそこに入って来ると・・思える自分を、稽古で創り上げて行く事。

 

さて・・先週の稽古で・・繋がりが繋がる事・・その力が強くなって居る事に気が付いた。

 


これって・・実は、剛の力・・を柔にして相手に伝えて居る感性・。

いわゆる気・・それが繋がって行く事。

私の力が・・足から手に伝わる剛の力を柔らかくする事で・・相手は、触れる程度で崩れて暮れます。

その繋がりを保てば・・その力は・・足を持った人にも繋がって行く。

 

これを、今日は中学生の雄剛にもやってもらった・・足を持つのは山内さんだが・・

私が手を離すと・・体をよじるだけ出・・決して投げる事はできない・

繋がりを作ると・・雄剛は、大人の山内さんを投げてしまうのだ・・。

 

逆に・・山内さんも繋がりをけすと・・かなり体重差のある雄剛を投げる事…強いていえば動かす事すらできない。

処が・・繋がりを造ると・・結果は、誰でも同じ・・・で・・雄剛は転がされてしまうのだ・・。

 

これが、再現性・・人が変わっても出来る・・。

いつでも、出来る・・・。

これは・・気と言う物があるという実証検証で・・そこに、技が入れば・・その技の完成度は間違いなく高いという事。

 

私は、そういう事を知らずに・・5・6年前から・・刀を斬り降ろして行く刹那の間の・・相手の腕の変化に対応し

相手の腕を斬っていた・・気持ちを込めれば(真剣身を持てば)ほぼ、90パーセント以上の確率で相手の手を

捉えてしまう。

ここに、欲はなく・・・斬ってやろうとか、当ててやろうとか・・・相手が憎いとか・・当てる為には?

とか・・・そう言う感性を全く持たず・・ただ、自分の出来る事・・

今在る技を、ありのままに出せる事のみを心の観念に持ち・・

切りに行くのだが・・・外れる事は、稀だった。

 

これも、気の世界観で言えば・・間と拍子と言う事になるのだろう。

あるいは、第三の目(上丹田)の発達による能力開花となるのだろうか。

しかし、それは・・出来る様になってから・・数年後に理解できる様になって来た事で・・

当初は、不思議だが認めざる負えない能力の開花としか・・説明が出来なかった。

 

それは、誰に教えて頂いた事ではなく・・・自然に身についた物だったから・・

そういう知識を持たずに、稽古修行をしてきたから・・

その過程においても・・欲を持つ事なく、

只素直に教えの中に身を置く事だけを意識していたと思う。

 

しかし、レベルの高い教えに接する事が出来た瞬間から、その事が説明できるようになり

自分の中で納得できる事として捉える事が出来る様になったし・・

それからの、進歩進化が・それまでの・・何年分かを取り戻すかのごとく加速したと言う感も強い。

宇城先生との再会・道塾での学びが・・停滞していた時間を動かし始めたのだと感じた。

 

いやいや・・それまでも・・色々な学びや稽古を積み・・修行の成果を出しては来ていた

自分の納得の行く事であったとは思う・・。

しかし、事理一致と言う事のスピードの速さは・・・

脳で考えながら・・変化を求める事とは比べものにならない・・・

何故なら・・わからない事をやって居る自分に良い結果が出て居るとは言え・・・

迷いが無いはずがない。

 

それは・・剣術の型の中であれば・・五本が五本とも・・完成度の高い物に変化し進歩して行ったという事で・・

私の繰り出す竹刀は・・なかなか・・受ける事のできない・・物になってしまっていた。

重いというのが、その評価だが・・結局、その重さが重力の世界観であり、

力(筋力)の世界観ではないといことを

なかなか、納得できないようだww

それから、その重力の重さには・・気迫がこもっているから・・・相手に恐怖観を与えてしまう。

委縮させてしまう・・

それは、なるべく面に出さない様に心掛けている・・・

先週の稽古でも、Mさんや山内さんは・・

私に間をつめられると・・びくっとなって・・後ずさりする・・様だったし・・・

IM君との稽古でも・・その様な事は認められる事だった。

 

竹刀を振りだすという事で・・筋肉を示すなら・・なりふり構わず・・型に囚われることなく振る事になるだろう。

普通に考えれば、決められた、姿勢の決められた形の中で・・どれほどに筋力を駆使しても、出せる力など大差がない。

それを、重いと思わせるという事は・・全身の働きの中に斬りがあり・その重さが竹刀に通じて居るという事であるはずだ・・

そういう感性が武道の本質を、稽古して行く中で磨かれる感性でなければおかしいと、私は思う。

それが、古流の中に根付く魅力の一つでなければならないとも、思う。

 

それを、自分の理解できない事は・・全て力・・

と言う事は・・自分が力しか使って居ないという事・・それ以外の力の出し方を知らないという事を

証明して居る様な物で・・

古流を学ぶという事が・・型だけ知っていれば・・と・・

軸がしっかりして居れば・・そうい竹刀を振れるとも思わないし

型の中で、教えの中で・・欲のない竹刀を振れる事を実践していくしかないのではないか

・・そうい次元・・レベルの高い教えを・・説いて下さるのが道塾での宇城先生だと確信している。

 

私の竹刀は、ゆっくり斬っても当たる・・・見た目ゆっくりなのに・・実は凄いスピード・・と、

言う感性はなかなか理解できないとは思うが・・

それが、重力の持つ一つ特性であり・・・働きといって良いのではないだろうか。

気の世界とは、重力の働きを自分の味方に出来る事から・・

わかり始める事の様に思う・・それは、後からわかる事なのです。