私は・・小学校2年から5年まで・・習字を習っていましたが・・なぜか?2段と言う事でしたww
しかし、小学校の習字の時間に私は褒められた事は一度もなく・・周りに・・2段と言っても
誰も信じてくれなかったのも・・事実ですwwwしかし、私の2段は事実であり
ましたwwそういう事がトラウマで・・2段と言う事はあまり口外せずに生きてきましたが・・
習字を習い始めると・・漢字の「一」を最初に習うのはなぜでしょうか・・。
私が、聞いた話では・・一が一番難しい・・あるいは、習字の中の大切な要素が
沢山詰まって居る・・から・・と言う事が・・頭に浮かんできます。
しかし「一」と書く前に・・・・初歩的な準備・・たとえば・・習字道具をそろえる事から始まり・・正座で書くという事も、我慢しなければならず・・。
そういう事が・・あっての「一」が始まりで・・何枚も何枚も書いて・・先生に観てもらい・・朱墨で直しを入れてもらっては・・また書き直す。
そういう作業の繰り返しの中で・・「一」は形を成して行くのですが・・たとえば・・
無級の頃の一と・・2段になった後の一と・・同じ一の字でもきっとその差は
歴然であると思うわけです。たかが・・横棒一本なのに・・・。
一が難しいから・・その差が歴然であってしかり・・鉛筆やボールペンでいかに綺麗に書けても・・筆を使った・・筆使いが分かって居なければ
習字の一はかけないモノなのでしょう・。。。
筆使いが大切です。
武道でも・・同じなんですね。
立つ事ができなければいけない。動きが一つではいけない。右と左・左と右・・差があってはいけない・・。得意な方があるという事は、逆側は弱点でもある?
一本の先を書くのにどれほどの心遣いができるのか・・が、習字の一を書く上での極意であれば。。
自分を完成させて行くための極意は・・おのずと・・・・
それは・・やっぱり基本の中にあるのでしょう・相互作用の中でつねに・・関わり合いを持ちながら・・基本と応用が・・・並行してお互いを意識しながら上に上に上がっていくようなイメージがなければなりません。
モノが違えばすべてが違う・・では・・ダメなわけですし・・斬るという事から考えてみれば・・どうなのか・・と言う事も・・突く事から考えても・・結局
書道でも・・体の働きすべてが顕れる様な動きのある書が・・美しいとなるわけですが・・一を何度も何度も書いて行くうちに・・その心が分かる様になる。
私は、空手を教える上でも・・自分が剣道をやる上に於いても・・・一を忘れないで・・其の一が・・どう変化していくかが・・自分の進歩の度合いになるという事です。
と言う事は・・・2段には2段の書ける一があるとするなら・・それ以上は無いはずです。それ以下も・・あってはいけないと・・私はおもいます。
常に同じクオリティーで、書く事が出来る事が・・とても重要です。
勝ったり負けたり・・負けたり勝ったりではなく・・本当は・・常に同じ位の処に居る自分を意識できる事が、とても大切な心持ちなのです。
型の重要性は、そういう事です。
白帯の時の・・サンチン・・・の差が・・自分の空手の上達のバロメーターにならなければ、いけません。・・さらに・・腕が上がれば・・その上の型が常に打てるのが当たり前・・でなければおかしいのです。
今日の型は・・・昨日の型は・・ではなく・・その時できる最高の型がその時に出来る事が・・稽古を継続して居る・・証であり・・意味でもあるのではないでしょうか・・。
ですから・・・型のありがたみが・・浮きあがってきます。同じ処で納得して居るという事は、腕が上がって居ないという事の証です。
それでは、自分の良くない処には・・決して気づく事はないでしょう。
組手や対人稽古は・・それを確かめる手段で・・実は、己を磨くための稽古としては・・独り稽古が一番大切なのではないでしょうか・・。
誰が観て居ようと・・観て居まいと・・本当に単純な「一」と言う字を書き続ける事の出来る心を持って居る人が・・・本当に、凄い「一」を書くのでしょう・・か・・。