「このように、「ウチの店」は、一つの擬制家族だったから、
その中の店員の面倒は「ウチ」が完全にみるのである。
吉原の遊郭においてさえそうであった。遊女が病気になれ
ば店主は終身、最後まで世話をする。
(略)江戸の遊女は、今日ではすべて管理された女として、
女性哀史の別称のように言われている。しかし、これは間
違ってはいないにしても、事実をすべて公平に扱った見方
ではないように思われるので、少し触れてみたい。
最高の地位にある遊女を上方では「太夫」といい。江戸では
「花魁」という。吉原には二千名の娼婦がいたが、この中で
花魁になれる者は、多いときでも六、七人、少ない場合には
二人というときもあった。
花魁になれる資格は、一切の教養を持っていることである。
文字が上手で、和歌もうまい。碁、将棋ができて、小唄、端歌、
三味線、太鼓などの諸芸が一通りできなければならない。
つまり、当時の女性の教養の第一人者だということが条件で、
そのうえに、健康で、しかも美人であるという条件が重なる
から、どうしても選ばれる人数が少なくなるわけである。(略)
こうした花魁が江戸の文化を支えていたといえなくもないので
ある。
なぜかというと、江戸の流行はほとんど、「何々太夫好み」と
いったかたちで、櫛、簪、笄、帯、着物の柄にいたるまで、役
者とか太夫が生んでいったのである。
言うならば、彼女たちは、その時代の最高の貴婦人である。
しかも、公開された貴婦人だった。
普通の女性は、家の奥に入り、「奥様」になっている。
花魁は表に出ているほうの貴婦人で、ひじょうに尊敬もされ
ていた。
だからこそ、二十七歳で年季が明けると、良縁にめぐまれて
第二の人生へと誇りを持って入っていけたわけである」
(樋口清之)
前の記事で吉原・花魁という言葉が出たので、追記しておき
たい。
これは樋口清之という人の書いた"梅干と日本刀"の中の一
節である。
江戸時代は、世の中は平和であったのだが、庶民の暮らし
は明治、大正、昭和初期よりも貧しく、水呑百姓の言葉が
ある通り、米の飯を食える百姓・農民は稀であった。
貧しく娯楽の無い時代であるから、貧乏人の子沢山も当り
前の現実でもあった。
かくして貧乏人の家に生まれた女の子は、遊郭に売られ
る事になったのである。
しかし、その中でも美貌に恵まれ、賢く、芸に秀でた女神
のような女性は、天下を取る勢いを得る事も出来たので
あった。
今の水商売に身を置く女性には、そんな鬼気迫るプロ根
性と生き様を感じる事が出来ない。
自らの仕事の地位を上げるのは、自らの仕事の質である。