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みょんじゃさんのブログ

歴史オタク韓国中を旅しています。

1955年にアジア=アフリカ会議。

アジア情勢の変化によって、中国は第三世界(アジア・アフリカ諸国)との関係重視するようになる。

インドとの対立、中印国境紛争。
→ インドネシアをはじめ、東南アジア諸国、日本共産党との関係悪化している・・・(;'∀')

 

1956年2月の ソ連の フルシチョフによるスターリン批判(;'∀') 

これから対ソ連意識が強まる。

 

1958年 台湾海峡危機。

北ベトナムへの侵攻は社会主義中国にとっても大危機になった。

 

1959年、ソ連は中国の核兵器開発への協力を中止、中ソ技術協定を破棄。

⇒技術者の引揚げ。
・中国独自の第二次五カ年計画を出した。

→ 中国はソ連指導部を「修正主義」、ソ連は中国指導部を「極左冒険主義」と非難(;'∀')

 

1963年8月、米、ソ、英は部分的核実験停止条約に合意。中国を牽制。


10月16日  中国の核実験の成功(してしまった。)

1969年3月、中ソ国境紛争、珍宝島事件(ダマンスキー島事件)。

1964年初の核実験

1967年初の水爆実験が行われて、中国はアジア初の核保有国・・・


1970年代、米中接近。
1989年、ゴルバチョフ訪中、中ソ関係の正常化。

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~~文化大革命が起きる。~

 

   

1961年に 姚文元(文芸評論家)「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」(1965年)。

中国語:评新编历史剧《海瑞罢官》)

後の四人組の一人姚文元が1965年11月10日に上海の文匯報に発表した評論で、後にこの年の11月30日に全国紙の人民日報に転載された。

評論の対象は、

1961年に発表された京劇「海瑞罷官」の作者・呉晗である。

姚文元は、『海瑞罷官』は封建地主階級の海瑞を美化し、劇中の民衆冤罪取り消し(平冤獄)と地方官僚が没収した土地の民衆への返還(退田)は、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配・人民公社解体を主張するもの

 

1965年末から66年にかけて『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃した。

毛沢東は学術においても革命が必要と述べ、「文化革命」を提唱。

 

1966年5月、毛沢東は中央文化革命小組を設置。ブルジョワ思想や修正主義の取り締まりをを提起。
→ 初めて「プロレタリア(無産階級)文化大革命」を提示。

 

⇒   毛沢東は背後の劉少奇と鄧小平の打倒を目的。

 

1966年5月、北京の学校内に毛沢東を支持する壁新聞(「大字報」)貼りだされる

学生たちは学内の幹部を批判・攻撃。学生の中に腕に赤い腕章を巻き、毛沢東思想に従って戦う「紅衛兵」が出てきた。徐々に全国の大学生・高校生へとひろがった。

  

毛沢東は学生運動・紅衛兵を支持し、「20世紀のパリ=コミューンだ」と称賛。

  


6月末、清華大学附属中学に「プロレタリア階級の革命的造反精神万歳」という大字報。

毛沢東は「造反有理」の語を使って手紙を送った。

劉少奇らはかつての北洋軍閥や国民党と同じように学生運動を弾圧していると非難。
矛先はついに学生の運動を抑ようとした劉少奇へ。

 

1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された鄧小平や劉少奇国家主席らに対する攻撃を指示する。また紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃が「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガンで、正当化された。

 

8月から11月にかけて延べ1400万人以上の紅衛兵が北京の天安門で何度も集会

10月、劉少奇と鄧小平は自己批判を表明したが、収拾できず。

1966~1968年、活動の高揚期。

   

紅衛兵の心理としては 親世代の革命(1930~1950年代) 戦後を乗り越えてきた世代が自ら革命の主役となる機会の到来!!


毛沢東に腕章をつけた紅衛兵の代表「宋彬彬」。毛沢東面会後、「宋要武」に改名。  

1967~1969年、文革は初期ほどの高揚から混迷期

紅衛兵「造反有利、革命無罪」をスローガンに暴力的な糾弾集会、破壊活動、知識人や文化遺産への攻撃

高い地位人は、「反革命」とされ、三角帽子を被せられた

しかし、運動は彼らの思惑を超えて過激化。

    

教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。 特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

  

毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。

実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。

さらに旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。


1968年10月 劉少奇は国家主席などの役職を解任。共産党から「永久除名」

1969年11月監禁状態のまま病死?

 

1968年12月、毛沢東「知識青年が農村に行って貧農・下層農民の再教育を受けることは必要である」。

1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図る

毛沢東が権力を奪回して、林彪と江青が後継者として台頭。

1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言

 

1971年林彪事件。クーデター失敗

10月 国連の中国代表権を承認。

1972年、ニクソン訪中、日中国交正常化。

 

 

1966年から1976年まで続き、周恩来ら実務官僚は文革の行き過ぎを是正。

国内秩序と経済を回復が必要と考えた。対立が文革終結まで継続。

 

1974年1月に開始された、林彪と孔子思想を批判する運動。「批林批孔運動」

 

1975年8月から中国の文化大革命末期に展開された政治・イデオロギー闘争「水滸伝批判運動」が展開も、拡大せず。


1976年、周恩来死去(第1次天安門事件)、毛沢東死去。

1976年、江青ら「四人組」が逮捕され、文革終結へ。

Neo Zion 513: 1976年10月6日:逮捕四人帮

1977年に終結宣言がなされた

 

1981年、中国共産党が「歴史決議」で文化大革命を誤りと総括。
→ 文革で党と国家と人民は建国以来最大の挫折。指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用された。毛沢東同志に主な責任があるが、毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であり、偉大なプロレタリア革命家、戦略家、理論家で、文革で重大な誤りを犯したとはいえ、全生涯から見ると、功績が第一義的で
あり、誤りは第二義的である。