3代王の定宗王に引きつづき949年4代王に光宗が王位につく。
王権を強めようと夫人には豪族の娘をむかえようとする。
豪族の力を緩め安定させたかった。
西京派はパクスギョン、パクスムン兄弟と、ワンシクリョムが定宗の時に活躍していたが、光宗は開京派の2代目王、恵宗の近くで過ごしていた。
4代王光宗は思慮深い慎重派タイプだった。
即位7年は何もせず、貞観政要 (정관정요)を読みながら豪族対策を考えていたという。
忠州の柳氏と平山(黄海北道平山郡)朴氏の勢力がつよかった。
950年に「光徳」という年号を自ら作った。(中国に作ってもらうことはしなかった)
951年後周になると再び後周の年号を使った。
契丹に対抗するために後周の後ろ盾が必要だった。
開城に奉恩寺を建てて、王建(初代)を称えようと、均如(ぎゅんよ)僧侶を側に置いた。
955年 王融(왕융)を使臣として後周に送った。
王融はもともと後周人の貴族で高麗に住んでいた。
後周のような政策を高麗で実現できる人材を探していた。
まして高麗は貴族のことで悩んでいた・・・。
956年[奴婢按檢法]を設立し豪族は奴婢を育成し、税金を無料にした。
そして奴婢を減らすことで税金を増やし、暮らしを豊かにし、兵士を増やした。
これによって豪族は弱まり、奴婢は良人になり、解決した。
光宗は新羅時代の神文王と、元聖王が儒教を興したが、これをもとに「科挙」制度を導入している。
雙冀には한림학사(翰林學士)という高官にした。学問業務を担当した。
雙冀は後周で科挙に関わってきた人だった。
地公居に任命し、制度を施行した。
高麗時代に科挙に合格した人に下した教旨
958年に科挙試験がスタートした。
高麗建国からの功績のある武人がそろっていた。
豪族の政界進出を防いだ。学者が学派を作り、弟子を育て、文官中心の官僚が定着した。
儒学を学ぶ若者が増え、忠と考を最高の徳とする「士人」たちが官職を占めた。
王中心の集権体制になった。
後周が崩れ宋の조광윤(趙匡胤)が国を建てる。
960年に官吏たちの服を変更する。
後周の時に身なりがみすぼらしいと何度も言われていた。
官吏職によって色をかえ、王融(왕융)以上は紫、중단경以上は赤、도항경以上は真紅にした。
光宗は王から皇帝を意識し、年号を新たに[中風]にし、開京を「皇都」、西京「西都」に
960年豪族出身の官吏を代表する머상,준홍,죄승,왕동が謀判を企て官職は剥奪された。
王建時代からの박수경家を没落させた。西京勢力の中核だったが、박수경の息子3人も追い出した。
王族までも殺したりしてしまう。
恵宗、定宗の息子も殺されてしまう。恐怖政治状態に。
서필は剛直な性格で皮肉って王に自分の家を受け取ってほしいと伝える。
帰化人の家を奪って帰化人たちを手厚く重用していた。
王はその後、気を改めた。
光宗は自分のせいで死んだ人たちを慰めようと、寺を建て、民には餅とコメをわけた。
972年に軽い罪で捕らえられている罪人を全て解放した。
974年まで新しい人材を科挙で選び続けた。
帰化人の力を借り、改革をすすめてはきたが、朝廷まで任せる気はなかった。
975年に世を去った。
光州にまつわるお話。
朴淵(パクヨン)滝に行く道は、開城市内を西に抜けて開城-平壌(ピョンヤン)間の高速道路に乗って10キロほど上がり、右に2.5キロほど進むと、右に高麗(コリョ)24大元宗(ウォンジョン)の小陵(韶陵)がある村に行く道がある。
ここから500mほど行くと、天馬山から伸びた山並みの麓に高麗4代光宗の墓が位置している。
現在、行政区域上では開城市三叉路洞だ。
光宗は925年(太祖8)、太祖王建の息子として生まれ、949年に王位に就き、975年に在位26年ぶりに51歳で亡くなり、松岳山の北側の麓に埋葬された。
高麗3代正宗の実弟で名前は王昭(昭)で、陵号は憲陵(憲陵)だ。 風水地理説により太祖は都城の西側に、恵宗は東側に、正宗は南側に、光宗は北側に安置されたのだ。 憲陵から舗装道に沿って東北側に13kmほど行けば、松島三節の一つである朴淵滝が出てきて、朴淵滝の南側に光宗21年(970年)に法印国師である坦文僧侶が創建した観音寺が位置している。
実際、北側の人々も朴淵滝や観音寺を訪れ、近くに献陵があるという事実はよく知らない。 07年から開城(ケソン)観光が始まった時も、朴淵(パク·ヨン)滝と観音寺だけが観光コースに含まれたが、憲陵は関心の対象でもなかった。 最近撮影された憲陵の姿を見ると、その理由が分かるような気がする。
憲陵まで簡単にアクセスできる道もなく、長い間放置されており、王陵と見ても困るほどだ。 高麗第31代恭愍王の時までは王が光宗の献陵に拝謁96高麗王陵紀行したという記録が残っているが、朝鮮時代に入ってまともに管理されなかったのだ。
一方、朴淵滝は依然として北朝鮮の人気スポットとして残っている。 開城市内から直線距離で16km離れた天馬山(チョンマサン)の麓にある朴淵(パクヨン)滝(高さ37m)は、金剛山(クムガンサン)の飛龍(ピリョン)滝(高さ50m)、雪岳山(ソラクサン)の大乗(デスン)滝とともに国内3大名幅の一つだ。 滝の上の方に直径8mの朴淵があり、下の方に直径40mほどのゴモダムがある。 朴氏の姓を持つ進士が池の真ん中の岩で笛を吹くと、水中に住んでいた竜王の娘が惚れて竜宮に連れて行き、一緒に暮らしたとされ、パク·ヨンという名前が付けられた。
昔から朴淵(ぱくよん)滝の絶景、儒学者の花潭ソ·ギョンドク(徐敬德)の気品と節操、ファン·ジニの絶色を指して「松島三節」と言った。
30年間面壁をしていた知足庵の禅師を破戒させた絶色の黄真伊も、黄真伊の誘惑を振り切ったソ·ギョンドクもこの滝をよく訪れて景観を楽しんだという。
滝の下のコモダム(姑)には「ヨンバウィ」と呼ばれる岩一つがそびえている。 龍岩には多くの漢字の名前と詩句が刻まれているが、大きくて流麗な草書体で中国李白の詩「礪山滝を眺めながら(望廬」)の中で「比流直下三千尺の詩は下落九千(飛流下三千尺 疑是銀河落九天が飛ぶように流れ三千尺を落ちると天から天の川が降り注ぐようだ)」という二つの節が刻まれている。
ファン·ジニが髪に墨をつけて振り回したという伝説が伝わってくる。
日本植民地時代まで残っていた陵碑と石水はどこへ?
朴淵瀑布から南に1kmほど離れたところに位置した観音寺が数回重建され、よく保存されたことに比べれば、献陵の管理状態は非常に残念だ。
1910年代に撮影された写真と比べても、陵碑だけでなく多くの石垣が消え、陵区域が狭小化されたことが確認できる。 1910年代に撮った写真を見ると、陵区域は3断面で構成され、その左右·後方の3面に石垣(曲蔵)を巡らした跡がある。 1段は1.65m高さの土類石壁で2段と区別し、ここに陵と石欄干、石獣が残っていた。 高さ70cmの12角形屏風石には十二支神像が刻まれており、この他に望柱石と石像が残っていた。 2段目には文人石一対が左右にあり、3段目には朝鮮時代の高宗の時に建てた陵碑がある。
亭子閣跡には礎石が残っており、本来の位置を教えてくれる。
しかし、2017年に撮影された献陵写真を見ると、墓域周辺の鬱蒼とした山林は毀損され、石垣の跡はほとんど消えた。 2段の両側に設置されていた幅1.8メートルの階段も完全になくなり、墓碑と文人石も確認できない。 北朝鮮の報告書によると、4区の石水が残っているというが、今はその程度も消えたようだ。 墳丘も高さが1.36メートル、直径が6.4メートルで、きちんと管理されていなかった。 開城市でも人里離れた場所なのでアクセスが悪いからだろうか? 高麗王朝の基礎を築いた光宗の墓にしては、あまりにもみすぼらしい。 過去、学界では憲陵の石物が毀損されたのに比べ、築台や礎石は比較的よく保存され、陵区域の原型を見せていると評価したが、最近入手された写真で見れば、1段と2段の間の築石は完全に消え、亭子閣跡にあった石を集めて補修しておいた。 原型が消えたのだ。
評価が交錯する光宗の改革政治太祖の後を継いだ恵宗と正宗の時には外戚勢力が介入した王位継承争いが起き、王権が脅かされた。 このような状況で即位した光宗は改革政治を行い、王権を強化しようとした。 光宗は改革の過程で、自分の政策に反対する外戚勢力と功臣、豪族勢力を果敢に粛清した。 これに対し高麗初期の功臣と豪族勢力は大きく弱まり王権が強化された。 光宗は豪族勢力に頼った政宗の政治に明らかな限界があることを痛感(痛感)した。 (光宗は)王権を強化するために、双基(サンギ)など中国系帰化人の官僚を登用させ、政界を入れ替えようとした。
また、科挙制度を整備し、科挙出身者たちを優遇し、儒学に造詣に深い人材の積極的な政治参加を誘導した。 厳格さと寛大さは国を治める帝王に必要な徳目であり、これを兼備した帝王は珍しい。 光宗はそれを兼備した君主であった。 光宗が豪族粛清と科挙制の実施で政界と官僚体系を入れ替えたのは、ムチのような厳格な統治の一面を示している。 反面、外国人官僚を優遇したのは光宗の寛大な統治の一面を示している。 高麗成宗(コリョ·ソンジョン)時代の儒学者である崔承老(チェ·スンロ、崔承老)も、光宗の初期政治については高く評価した。
「光宗は礼として目下の者をもてなして人を見分けることに明るく、親しくて尊い者に偏らず、常に贅沢な者を抑えて召天した者を捨てず、患果(鰥寡)孤独(孤獨)に恩恵を施しました。 王位に就いた年から8年で、政治と教化が清く公平で、刑罰と銀賞(恩賞)が乱発されませんでした。」しかし、当時の支配層の世論は、光宗の外国人官僚優遇政策や豪族勢力を弱体化させる奴婢按検法の施行には、初期から友好的ではなかった。
崔承老(チェ·スンロ、崔承老)は当時の雰囲気を次のように伝えた。
「王朝建国当時、功臣たちは元々所有していた奴婢に、戦争で得た捕虜奴婢と取引を通じて得た売買奴婢を持っていた。 太祖は捕虜の奴婢を解放しようとしたが、功臣たちが動揺するのではないかと心配し、彼らの便宜に任せて約60年になった。 光宗が初めて功臣たちの盧?碑?を調査して不法に所有した奴婢を選り分けると、功臣たちは皆不満でいっぱいになった。 大木王后(穆、光宗妃)が光宗に辞めることを切実に言っても聞かなかった」(『高麗史』巻93、崔承老列伝)、奴婢は豪族にとって土地とともに当時の重要な財産の一部だった。 ところが光宗は豪族が不法に取得した奴婢は解放するか、本来の主人に返すと言ったのだ。 豪族の軍事·経済基盤を弱めようとする措置だった。 光宗が狙った粛清の主な標的は、当時最大の軍閥である西京の豪族勢力だった。 光宗が960年(光宗11)開京を皇都、西京を西都と名を改め、政宗の西京優遇政策を捨て、開京中心の政治を明らかにしたのもそのためだ。
光宗の王権強化政策が続き、多くの豪族が命を失った。 チェ·スンロは光宗が「万年に至っては罪のない人を多く殺しました」として「どうして最初はうまくやって良い名誉を得たのに後で誤ってこのような状況に至ったのか非常に無念なことです」と遺憾を示したりもした。 一方、光宗の王妃である大木王后は陵号が記録されていない。 そのため、通常、光宗憲陵に合葬されたものと考えられる。 ただし「高麗史」には大木王后の場合「光宗と共に父廟(祔廟)した」とだけ記録されているだけで、恵宗妃の花王后の事例のように合祀して葬儀を行ったという意味の副葬(耐葬)という表現がない。 父廟は3年の喪を終えた後、王や王妃の神主を太廟(朝鮮時代の宗廟)に祀ることをいい、王と王妃の合葬を意味するものではない。 例えば、3代正宗の王妃である文公王后の場合は、正宗の「安陵に葬儀を行い、定宗とともに墳墓した。
副葬と墳墓を分離して記録した。 光宗と大木王后が合葬するかどうかをもう少し綿密に検討する必要がある。
ただし、4代光宗から7代目木宗までの王后は「父廟」という記録だけが残っているが、王后墓の陵号が別途に記録されていないという点で合葬の可能性が大きいと見ることができる。
実際、8代顕宗の時からは王妃の陵号が別途に記録されている。
顕宗の王妃である元聖太后の場合、「明陵で葬儀を行い、顕宗とともに墓参りをした」と記録されている。
https://ja.namu.wiki/w/%EC%A0%95%EC%A2%85%28%EA%B3%A0%EB%A0%A4%20%EC%A0%9C3%EB%8C%80%29
wiki NAMより
光宗の墓。
2009年に北朝鮮が公開した光宗の墓の写真。
だいぶ崩れているようだ。
北朝鮮は2014年、憲陵の東側にある五關山(オグァンサン)霊通寺(ヨントンサ)と朴淵(パクヨン)滝の間を結ぶ観光道路を拡張して開通した。 今は開城観光が再開されても憲陵前の道を過ぎて朴淵滝に行かず、霊通寺を観光してすぐ山道に朴淵滝に到達できるようになった。 憲陵がさらに衰退するのではないかと懸念される。












