成宗
第6代高麗王(在位:981年 - 997年)。
姓は王、諱は治、諡号は康威章憲光孝献明襄定文懿大王。
景宗の王子たちはまだ幼く、王建の7番目の息子の旭の次男である成宗が即位した。
成宗は賢明な臣下を得ようと努力を惜しまなかった。
奴婢~法を亡くし、解放された奴婢を再び奴婢に戻す法律を作った。
新羅の貴族出身の学者たちも巻き込んだ。
王中心の中央集権制を作ろうとした。
即位1年で全ての官吏に告示に対する考えと計画書を出すように命じた。
儒教を苦に中に広げようと知恵を集めた。
ある日、一人の臣下が成宗を訪ね学問と德望が並外れた学者、崔承老を紹介された。
成宗は崔承老を知っていた。
崔承老は12歳の時、太祖王建の目にとまり、元鳳省(国王の勅書作き受けていた官庁)の学士になった。
成宗の前に呼び出された崔承老は、すでに56歳、白髪の頭になっていた。
新羅6頭品出身だったので高官に付けずにいたが、高官になった。
今までの王が行ってきた業績のうちに改善した方がいいものを調査せた。
1.上訴文を載せた背景 (唐の歴史家오긍呉兢(ご きょう、670年 - 749年)は、中国、唐代の歴史家・官僚)が貞観正要を書いて
??顕宗にささげたことが高く評価された。??
2.太祖から景宗までの評価
そして、崔承老は
3.「時務策28条」を作成した。
その内容とは、軍事制度を立て直すことだった。
軍隊を養うのに費用が高くつくので、兵隊の数を増やすことよりも、訓練に重点を置くことや、また、仏教を奉じるのにかかる費費用を減らすこと、忠臣を選び、また高い役職を減らすようにとも進言した。
教育のために毎年、甲乙をつけて秀才を選抜した。
「時務策」にはこれ以外にも、官吏の服装を定めることや、地方豪族たちが人々を苦しめているから王様が直接派遣する官吏に地方を治めさせることなど、28にわたって記されていた。
成宗は崔承老が提出した時務策に従って、国の政治を一つ一つ正した。
この「時務策28条」は現在、6か条がなくなり、22条だけが伝えられている。
行政改革を推進し、高麗建国時から濃かった仏教色を排除し儒教の普及のため各地に学堂を建てた。
北朝鮮の開京にある 国子監(首都)地方にある郷校=高麗時代の教育機関
公認世界初の国立大学 成均館 ソンギュンカン
周易、尚善、周礼、礼記、孝経、論語などを教えた。
郷校では、医学、地理、律書、産学などの雑学も教えた。
高い官職についても休まず、儒学を勉強せねばならなかった。
50歳以下は毎月翰林院で問題を受け、詩3編、部1ずつ提出しなければならなかった。
地方官僚は毎年30編、部1編ずつ提出、
正5品以上の자제だったら、科挙の試験なしで官吏になれた。
陰書制があったが、科挙に及第した官吏よりも認知度は低かった
成宗12年の993年の秋
女真族(ジョシン)が王宮を訪ねてきて、王宮の大門の守衛といさかいを起こし、言い争っていた。
女真から来たの使臣が高麗国王に重大な知らせを持ってきたという。
女真が言うには、北方の契丹族が今、高麗に押し寄せてきているという話だった。
驚きはしたが、その時が来たと感じた。
契丹には高麗と戦う理由がなかった。
しかし、成宗は女真族の使臣の言葉を信じなかった。
このころ、女真族は鴨緑江:アムノクカン(川)付近と咸鏡道の北の地方に散らばって住んでいた。
女真族の使者が契丹の高麗侵入を知らせに開京に駆けつけた。だが高麗朝廷は⋯
契丹族は渤海を滅亡させ、その地に『遼』という国を建てた。
契丹族は満州一帯の地を占領し、密かに中国大陸の宋まで狙っていた。
宋は長い戦いの末に中国大陸を統一した大国。
長期戦に疲弊していた遼は、まさしくこのすきを突こうと宋を攻撃した。
遼の侵略行為を許せず、宋は高麗に助けを求めにきました。
成宗は宋の求めを丁重に断った。その頃、高麗は援兵を送るほどの余裕がなかった。
成宗と大臣たちは理由をあげて、女真の使臣の言葉を信じなかった。
女真族の使臣が帰ってから、何日かが過ぎ、契丹の将軍粛遜寧が大軍を率いて鴨緑江を越えて進撃している
との報告。
その時にようやく、気を引きしめた成宗は、朴良柔を上軍使に、徐熙を中軍使に、崔亮を下軍使に任命し、契丹軍を阻ませた。
しかし、契丹軍は防ぎようがないほどの大軍・・・。
粛遜率は高度に途方もない要求をしてきた。
「遼は高句麗の故地から興ったから、高麗の地は当然、我が領土である。
渤海を滅亡させた我々のものだ。
だから、高麗が占めている慈悲嶺の北の地を差し出せ!」
「こんな生意気な奴らがどこにいる!」
成宗は怒りをこらえられず叫んだ。しかし、現在の状況では契丹に対抗できない。
「一体全体、この事態をどうしたものか」
上軍使の朴良柔が答えました。
「まず、彼らの要求を聞き入れ、和親を求めましょう」
「そういたしましょう、王様」
崔亮が頷き、その意見に同意した。
すると、徐煕が叫んだ
「それは駄目だ! 戦いもせずに領土を差し出すわけにはいかない!」
太祖の時から北進政策が消えそうになっていた時期だった。
高麗朝廷は契丹族の投人を巡り、和睦策と対抗策に意見が分かれ、激論がなされた。
契丹は高麗が戦う気勢を見せるや総攻撃の命を下した。
押し寄せてきた契丹軍は、安戎鎮(アンユンジン)で突然、前進を止めた。
険しい山の稜線に築かれた安戎鎮は、高麗の軍隊一ヶ月守っていた。
契丹軍80万人はこの安戎鎮を越えなければ一歩もて契丹軍は蟻の大群のように城壁によじ登り、攻撃を開始し
安戎鎮を守っている高麗軍は、じっと待ちかまえていた。
契丹は高麗軍が怖じけづいて出てこないものとばかり思っていた。
士気がさらに高まった契丹軍は、「いざ」とばかりに城の上に追いこもうとしたその時・・
攻撃を知らせる太鼓の合図!
高麗の軍隊が一斉に喚声をあげながら城の上に現われ「矢を放て!」
「熱湯をぶっかけてやれ!」高麗軍は弓矢を雨のように放ち、沸きたぎる熱湯を瀧のように流した。
天を衝くほどの土気で城壁をよじ登っていた契丹軍は悲鳴をあげ地に転げ落ち
矢に当たって死ぬか、煮えたぎる湯に火傷を負って死んだ契丹の死体がそこかしこに積み上げられた。
怒り心頭に達した粛遜寧は、10日間も、絶え間なく城を攻撃。
しかし、安戎鎮はたじろがず・・・
粛遜寧は軍隊を引いた。
<数万名の軍隊でこの小さな城一つ崩すことができないとは⋯⋯⋯>
しかし、粛遜寧はなすすべがなかった。
- 蕭恒徳 (소손녕) しょう こうとく 軍人 -
彼は部下の将軍めて議論した末、再び高麗の陣営に使臣を送る。
契丹軍をもって降伏させ、安戎鎮で受けた恥辱をそそぐと
丹族は安戎鎮で高麗軍のすぐれた戦術にふり回され進むことができませんでした。
中軍使 徐熙は、小細工を弄する粛遜寧と話しあいに、契丹軍の陣に赴いた。
失敗は許されない危険な状況だった。
「将軍と私はまったく同じく、それぞれ自分の国の国王の命を受けてきました。お互い、礼儀をわきまえましょう」
徐熙の堂々たる態度に、粛遜寧はたじろぐ。
粛遜寧は正論をもって正攻法で話す徐熙を議論では対抗できなかった。
”戦いの勝敗は軍事や武器の数にかかっていない。敵の弱点をよく知っていたら十分に勝てる”
이자백も叫ぶ。
高句麗のときの遼が占めている遼陽地域も渡すように交渉する。
そして、高麗は宋に使えている、遼との間に女真があるのだ。遼と高麗の行き来のためにじゃ女真を倒さなければならない。
これに納得した粛遜寧
それは当然のこと。
戦を好む契丹族が高麗に侵入したのは、言いがかりをつけるほどの理由があったからではなく、かつての高麗の領土をひそかに狙っていたからだった。
徐熙はこのような契丹の欲望を挫いたり、宥めたりしながら諭した。
「将軍は遼の威信を保って軍隊を引きなさい」
徐熙が粛遜寧に最後に厳粛に言い、帰ろうとした時・・・
粛遜寧は徐熙の前に立ちはだかった。
徐熙は契丹が理由なく高麗に侵入したのを問い詰めるために、契丹軍の陣営に行き、粛遜寧と面会した。
粛遜寧はその時、自分の国王からの作戦命令を待っていた。
この事実を知った徐熙は、びっくりした。もしも、攻撃せよという命令が下れば、生きて帰ることはできなかったから。
遼の国王からの回答は7日後にようやく届いた。
「粛遜寧はすぐに、軍隊を率いて戻るようにせよ!」
遼は高麗の敵になることは、宋を撃つのに不利だと考えたのだった。
結局徐熙は、交渉によって契丹の10万の軍隊が退いた。
993年契丹の高麗侵攻を受けた際には、外交交渉で軍勢を退け、高麗は鴨緑江東部の江東6州を得た。
80万大軍を追いやり、女真を征服する機会まで得た。
後の江東6道の基礎となる城を築くことになった。
契丹をうまく利用したのだった。
995年契丹の侵攻を受けると、宋との関係を断絶し契丹と外交関係を結んだ。
997年成宗が病に
臣下の王融が健康のために罪人を解放しようとした。王は拒絶した。
罪人を許しても生命が増えるわけではない。次の王のためにそれはできないと伝えた。
「迷信を信じず。儒教者だった」李斎賢は成宗をよくを出さず王室を堅固にして人材を選び、民のことをよく面倒をみた。
真の善良な王と評価した。
































