穆宗(ぼくそう 、980年7月5日 - 1009年3月2日)は第7代 高麗王(在位:997年 - 1009年)。
姓は王、諱は誦。廟号ははじめ愍宗、のち穆宗とされた。
諡号は孝思威恵克英靖恭宣譲大王(宣霊大王)。
第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后皇甫氏。
景宗死去の時は1歳であった。
弓の扱いや乗馬に優れ、酒を楽しみ狩を好んだ。
しかし、政治に志はなく、側近だけを近くに置き、儒教的評価を受けた。
18歳で即位。
王妃、後妃もおいていたが、同性を好む王だった。
愛した ユヘガン という男
穆宗は、当然ながら世継ぎを授かることができずにいた。
母の摂政の圧迫によって委縮していたともされている。
これを心配し、目を付けた母の献哀王太后の野望が高麗を不幸に導いていく。
献哀王太后は景宗亡き後、自ら千秋太后と名乗った。
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王が18歳で幼いからという名分で摂政をした千秋太后
千秋太后(ちゅんちゅてふ)と呼ばれるようになる。
ドラマにもなっている。
千秋太后と妹(헌정왕후)は景宗と17歳で婚約していて、妹は왕송という景宗の後継者がいた。
26歳で景宗が亡くなってしまう。
まもなく、千秋太后の兄である成宗が王位に上がった。
千秋太后は、遠い親戚にあたる僧を呼び寄せる、僧の名前は 金致陽 (きむちやん)。
王であり、兄の成宗に、宮から追い出されてしまう。
そして金致陽と出会う。
金致陽は 成宗の時に官職から追われた。
その頃、 後家だった太后と彼が 近しい間柄だったというが王宮内に広まった。
王の姓の王氏ではなく金氏で、金致陽は千秋太后の外戚の親族の一人だった。
子どもの時によく会っていた関係だった。
金致陽は僧侶の恰好で献哀王太后の近くで過ごした。
その後、 金致陽はニセの僧となり、 姿を隠し、 時がくるのをじっと待っていた。
周りの視線を回避。。。
ところが、成宗にことが見つかってしまい、金致陽が島流しにされた。
妹(헌정왕후)は千秋太后の父である王郁왕욱 と夫婦関係になる。
王郁왕욱は太祖の直系で従妹関係だった。
王郁왕욱 はすでに婚姻関係の妻がいた。
王郁왕욱のことも成宗が知り、やはり島流しにした。
ところが、妹(헌정왕후)が子ども왕순をやどす。
出産後に妹(헌정왕후)は命を落とす。
왕순が誕生し、王族の名前、大良院君を名乗る。
さて、
38歳で兄の成宗が世を去り、穆宗が王位に上がると、幼い穆宗の代わりに摂政を行うようになる。
島流しにされていた金致陽を開京に連れ戻し、官職を与えいつでも会えるようにした。
金致陽はすぐに高官になる。
さらに行政のすべてを金致陽に与えた。
生母の千秋太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。
300余りの칸の大きさの大邸宅を与え、財力と権力を得た。
そして、 自分の意にかなう人間を連れてきては、 思いのままに官位に就かせたり、
国の金で自分の家を王宮のように築き、 たいへん贅沢な生活を送った りした。
千秋殿 長々と暮らせるように~という意味の宮を千秋太后のために作った。
この宮の名前が、太后の名前の由来になった。
それから1年が過ぎ・・
千秋太后が過ごす千秋宮から子どもの泣き声が・・・
1003年に金致陽との息子 현;ひょん を出産した。
穆宗に息子がなく、千秋太后の子どもを次の後継者に即位させようと企む。
そして、千秋太后は妹(헌정왕후)が残した왕순:大良院君が心障りになる。
穆宗の義理の弟(千秋太后の甥)にあたる、大良院君。
王位継承の可能性のある太祖の直系である왕순、大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い僧侶にしてしまうのだった。
三角山の寺に思慮深い年老いた僧侶がいた。
寺に千秋太后は女官?に餅と酒を왕순(大良院君)の寺に届けさせた。
送られてきたものを外にそのまま捨てると・・・
鳥たちが寄ってきて食べ始め…ばたばた死に始めたのだった。
毒殺しようとした千秋太后。
この一件を臣下はそっと、千秋太后のもくろみだとわかっていた。
1009년千秋殿で火事が起こる。
原因はわかっていないが、千秋太后はショックを受ける。
さらに、穆宗はこの火事によって、また周囲の勢力のストレスなどもあったのか、病に伏せてしまう。
このタイミングを待っていたかのように急いで千秋太后の息子を王位にあげようとする。
穆宗は、息絶え絶え後継者に、왕순大良院君(顕宗)を指名する。
金致陽の子どもの逆謀を許すわけにいかない!王氏ではない金氏の息子にするわけにはいかない!!
穆宗は二人の勢力をけん制するために平壌に西北面の巡検使の康兆(かんじょ)を開京に呼び、護衛させた。
西北面の都巡検使である康兆は、 北方のオランケを食い止めるため に、 何年か前に西京 (現在の平壌) に出て陣を敷いていた。
そうしたところへ、 康兆は穆宗から急な連絡を受けた。
王にはこっそり帰法寺に身を隠しているように伝え、迎えに行くと手紙を送った。
王と千秋太后と유충정を連れて法王寺に逃げた
中枢院の副試の蔡忠順が注意深く、
西京に行っている康兆将軍を呼び寄せることを提案する。
危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止させようとした。
康兆は 軍隊を率いて開京 (現在の開城) に向かった。
魏従正と崔冒から王は死んだと聞いて引き返す。
5000の兵と開京について、王は生きていると知る。
開京に近づいた 時
康兆の部下の将軍の何名かが、 康兆に申し出る。
「金致陽一味を亡き者にしなければなりませんが、 そんな者に騙され た国王も当然、 責任を取らねばならないでしょう」
「国王までも?」
「そうであります。 そのような方国王の座にあれば、 いつまた国が 危うくなるやも知れないからです」
康兆はその言葉を聞いて、 しばし考え込み、決断した。
「開京に進撃せよ!」
王命も聞かないまま軍を率いて約15日で開京に到着する。
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こうして国王の座を窺っていた金致陽一味は、 康兆の兵にことごとく首をはねられた。
そして、金致陽を殺害し、千秋王妃の子ども현も殺してしまうのであった。
宮殿を掌握した康兆は7人を殺害、千秋太后の親戚이주정などは30人流罪にした。
康兆は三角山に人を遣り、大良院君を即位させることにした。
康兆は武装兵力を率いて開京に入り、そして、康兆は穆宗の話とは裏腹に大良院君(顕宗)を王位につかせ、穆宗廃位させた。
再び穆宗が王位に就くことを恐れた康兆は 穆宗と千秋王妃を流刑にした。
高麗第8代王 の顕宗 (在位1009-1031) の誕生である。
この康兆の一件の事件を『康兆の政変』という。。
千秋太后も無事ではいられなかった。
太后という位を剝奪されたまま、 遠く離れた島に流された。
法王寺?にいた王は최항をさせてお願いした。
穆宗は何人かの侍従だけを伴い、 忠州に 逃亡。
康兆の軍は馬で忠州に向かった。
不安を感じた康兆(かんじょ)は刺客を送って忠州に向かっていた穆宗を坡州市積城縣付近。
毒薬を自分で飲むよう言い渡せられる。
拒否した穆宗は首をはねられ殺害された。
康兆の刺客は箪笥の板で棺を作り、死体を運び、王は自ら命を絶ったと告げた。
一か月後、火葬され埋められた。 穆宗30歳であった。
一方、千秋王妃は太祖の息子の景宗を夫に迎え、成宗を兄に持ち、息子は穆宗 3人の王を失い、66歳で世を去った。

경기 파주시 적성면 마지리 산100-1
李齊賢は高麗史で木宗と「千秋太后」を次のように論評している。
穆宗がこのような前例がなかったため教訓にすることができなかった。
母子がこのように共に惨禍に遭って国が亡びるところだった。
穆宗の不幸はむしろ国の幸運になったのかもしれないと酷評。
この時に造成された穆宗の陵は恭陵。
これは康兆主導のもとで行われ、後にこの事実を知った顕宗は1012年(顕宗3)に開城の東側に改葬し、陵号を義陵(義陵)に改称し、廟号を穆宗とした。
![[ソウル=ニューシス] 1910年代に撮影された東陜陵の全景。高麗初期に造成された墓と推定され、東に埋葬されたと記録されている高麗7大木宗の義陵や14代憲宗の陱陵である可能性がある。 (写真=国立中央博物館)2020.05.09。 photo@newsis.com(※上記の写真は再配布、再販、DB、利用を禁止しています)](https://img1.newsis.com/2020/05/07/NISI20200507_0016308914_web.jpg?rnd=20200507142151)
1910年代に撮影された東陜陵の全景。高麗初期に造成された墓と推定され、東に埋葬されたと記録されている高麗7大木宗の義陵や14代憲宗の陱陵である可能性がある。
『高麗史』には康兆の処士について
「臣下と民が皆、痛憤しなかったことはなかったが、顕宗(8代)だけがこのことを知らず、契丹が罪を問う時に初めてこれを知ることになった」
と記録されている。
高麗葬品が改葬された穆宗の義陵は、都城の東とだけ記録されている。
朝鮮世宗代までは「義陵周辺で伐木したり採取することを禁じた」という記録が残っている。
この時までは穆宗陵はある程度管理されていたと見られる。
しかし、その後、正確な位置が不明となっている。
義陵がまだ存在しているとすれば、現在の北朝鮮の開城都城の東側や東北側に残っている王陵の一つが穆宗陵であるとされている。
中でも10世紀-11世紀初めに造成された東龜陵(トングルン)と小陵郡第5陵を穆宗陵だと推定している。
開城市龍弘洞(ヨンホンドン)にある東龜陵は、開城城の東北側の門である炭峴門(タンヒョンムン)跡を通って伸びてきた稜線の南側の斜面に南北に長く置かれている。
埋まっていて、本来の姿をもはや見つけることは難しいとされる。
屏風石は消え、石水2北に約1km離れたところにある。
この王陵は松岳山の主峰から東に現在、墳丘は流失が激しく、裏山から押し出されてきた土砂で石造物が残っている。
本来の形を失って楕円形になっており、墳丘の長さは9.5m高さは3.5mとされる。
1997年の北朝鮮の発掘調査によると墓の北の壁には蓮、西の壁には竹と蓮が描かれており、東には蓮が見え、天井部分は明確にはわからないとされる。遺物品も出土している。
963年12月 高麗、宋の年号を分暦。
983年 6月10日 遼、統和と改元し、国号を大契丹とする。10月24日 契丹、高麗を攻める。
985年 7月1日 契丹、高麗を攻める。
992年 12月 契丹、高麗を攻める。
993年 1月17日 契丹、高麗と講和。10月3日 高麗、契丹に使を遣わす。
994年 2月 高麗、契丹の年号を分暦。
1002年(穆宗5年6月)耽羅山大噴火
1004年 科挙法改訂
1005年(穆宗8年) 全州節度仕を設置
1007年(穆宗10年) 耽羅で海中から瑞山が出現 / 平昌 月精寺 八角 九層石塔 建立

1010年8月21日 契丹、高麗を攻める。
父:景宗 / 母:献哀王后
伯父:成宗 / 叔母:献貞王后
従弟:顕宗
王妃:宣正王后 劉氏(太祖の子・寿命太子の息子 弘徳院君王圭と成宗の王后 文徳王后劉氏の娘。従兄弟に関係に当たる。)
後宮:邀石宅宮人 金氏(女官出身であったが、新羅の元聖王の末裔と称した。後に流罪となる。)
錦川区 に残る穆宗時代の記録








