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歴史オタク韓国中を旅しています。

1010年 通州を陥落させた契丹

契丹の聖宗(ソンジョン)王 が40万の大軍を率いて2回目に高麗の開京(ケギョン)に進撃。

開京は守備兵は少なく、すぐに落とされてしまうところだった。

西京の 智蔡文(チチェムン)将軍はそれを知り、 すぐさま軍隊を率い て契丹軍の後を追って追い払った。

 

 一方、 知らせを受け高麗の朝廷は降伏しようという者と、 最後まで戦おうという者とに意見 が分かれ、 言い争った。

 

姜邯賛(カンガムチャン)将軍が、

 「王様、 戦いもせずに降伏するわけにはいきません。

王様はしばらくのあいだ、 豆満江の南に身を避けていてく ださい。 

そうして時間を稼いでおいてから、 オランケと戦おうと思い ます。」 

顕 宗は開京を出て、 避難。

 

ついに契丹軍が開京攻め寄せてきた。 

開京は瞬時のうちに契丹軍に踏み荒らされた

彼らは王宮と人家に手当たりしだいに火を放ち、 あらゆる物を奪った。 

契丹の王の聖宗は、 手下の将軍たちを集めて言う。

開京をこれから、賜するつもりだ。

その前に、 思う存分奪いつくすがよい!

手当たり次第に略奪をしていった。。

 

 

顕宗は開京がオランケの手に落ちたという知らせを京畿道広州の地で聞いた。

河拱辰は最初に仕えた王様である穆宗の時代に、 女真族との戦いで破れた罪で、 顕宗が王になると流配されていた人である。

 

しかし、契丹族の侵入で国が危くなって、 流配を解かれた。 

河拱辰は王に

「王様、 今はオランケと正面から戦っても決して勝つことはできません。

ですから、 和親を求めて下さい。 

特にオランケの進撃の口実は、康兆将軍を撃つというものでありますが、 

康兆将軍はすでに彼らによって殺されました。 

こうした理由をあげて和親を求めれば、 彼らもおとなしく退いていくことでありましょう」 

河拱辰は自ら人質に行くと言い、部下の将軍の高英起とともに親書を持って敵陣に入っていった。

 

 

 

契丹の聖宗(ソンジョン)王は親書を読んでも退却の考えを示さなかった。

それどころか、国王を契丹に来させるように要求をしてきた。

来るまで契丹軍は河拱辰将軍を人質に連れていくことにした。

高英起に河拱辰は、死を覚悟していると伝える・・・

河拱辰将軍は契丹軍の服を手に入れ何とか逃げようとしたが、捕まってしまい、

ついに聖宗王に首を切られてしまう。

1110年  高麗人の気性を曲げることなく、喜んで死んでいったという。



その間、契丹は郭州(곽주)城を占領してしまう。

이기환의 Hi-story] "뼈가 가루가 되도록 싸웠다'…사료만으로 따져본 양규의 7전승 신화 - 경향신문

 

勝利に浸って帰る契丹軍の前途は決して平坦なものではなかった

興化鎮の楊規将軍が軍隊を率いて亀州北側の道を塞いでいた。 

 

契丹軍は寒い天候のうえ、 時ならぬ雨に打たれ、疲労困憊。

そのうえ、 略奪した品々を兵隊たちは、 背中に山と背負っ ていた。

そうして、 契丹軍は谷間の中央に入った瞬間

 「総攻撃!」

谷間の両端に隠れていた高麗の兵隊が、 一斉に雨にように弓矢を放った。

巨大な岩や石をいくつも下へ落とした。

谷間は瞬時のうちに契丹軍の悲鳴で修羅場と化す。

不意の攻撃を受けた契丹軍は、 立ち向かうひまもなく、数万名の兵士が一度に命を落とした。 

高麗軍の数は少なかったが、奇襲するときだけ勝つことができた。

 

聖宗は軍隊を整え、 何度も攻撃を試みました。 

しかし、 その度に契 丹軍は高麗軍に対抗する力もなく崩れた。 

 

戦いは初めから 契丹軍に不利だった。 

寒さと飢えに打ちひしがた契丹軍はいつしか逃亡を考えるように。

「皆の者、 後退せよ!」 

聖宗はついに軍隊を率いて北へ逃亡しはじめた。 

 

「一人も生きて返すな!」 

楊規は先頭に立って、 逃げて行く契丹軍の後を追いかた

楊規は恐れずに果敢に700名と郭州(現在の郭山)を進撃。

負け続けた高麗軍は楊規の指揮で再び立ち上がる。

 

 全面対決になった・・・

 

楊規は最後の最後まで・・・

고거전' 지승현의 양규, 그동안 고마웠다 [엑's 초점]

戦い続け、何十もの矢を浴び戦死した。

勇猛な将軍だった。

高麗の将軍たちの激しい抵抗に怯えた契丹君は戦う意欲を失い、ついに高麗から退き始めた。 

高麗軍は退却する契丹軍を最後まで追って退け、江東6州を取り戻すことができた。

 現在の흥화진(興化鎭)

 

 

 

 

 

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河拱辰ノリというひとり演劇が 朝鮮半島最古の演劇として残っている。

その歴史は、《高麗史》の記録されている。

国初の一人劇として高麗時代の公信である河公辰を素材とした調戱。

https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%98%EA%B3%B5%EC%A7%84

고려 시대의 공신인 하공진(河拱辰)을 소재로 한 조희로, 1110년(예종 5년)에 연희된 잡희 또는 잡극이다. 《고려사》의 기록에는 “배우가 있어 놀이로써 선대공신을 기렸다”고 전하고 있다.[8]

 

 

 

 

 

 

 

 

彼の死後の300年間、子孫が公信待遇を受けて官職に進出するようになった。

チンジュ河氏の始祖になる。

 

 

チンジュで2025年1000年ぶりにこの演劇が行われた。

 


진주성 내에 있는 경절사에 배향되어 있다. 경절사 앞에는 하공진 선생의 사적비가 서 있고, 맞은 편으로 경절사가 있다.