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みょんじゃさんのブログ

歴史オタク韓国中を旅しています。

1011年 契丹王は高麗から退きはしたものの、高麗王の顕宗に二つを要求してきた。
・高麗の国王が契丹に来て臣下になり、礼を挙げること

・江東6州を出せということ

 

契丹に降伏なんてできるはずがない!

きっぱり断ることはできなかった顕宗は体調がすぐれないことを理由に遠方行くことが困難だと伝えた。

そして代わりに진공지を送るので理解してほしいとも付け加えた。

もちろんやっと取り戻した江東6州を手放すことはできなかった。

契丹王の聖宗は江東6州を出さなければ再び軍を率いて攻め込むと脅してきた。

理由は江東6州の返還と契丹に入朝せず、宋と手を結んでいたことであった。

 

 

一方、高麗の政治体制に不満を持つ武臣たちの不満が爆発する事件が起きる。

高麗は文臣を優遇していた。文臣は戦争ともなれば将軍になることができた。

武臣は文臣のように高い官職につくことはできなかった。

 

1014年、軍人 たちに月給の代わりに分け与えていた土地の業田を、すべて取り上げてしまう。

不満が爆発した武臣たちは、これを口実に反乱を起こす。

上将軍の崔質(チェジル)、 金訓(キムフン)が首謀者となり、王宮を攻め 文臣たちを手当たりしだいに殺してしまった。 

 

 顕宗は王妃の金氏の部屋に身を隠した。

「王様、 今はオランケを食い止めることが何よりも急なこと。こんな時だから、 武臣たちを大事にしてほしい」 

国王は武臣たちが庫を敷いている王宮の庭に出向き

「奸臣たちに罰を下す。」こうして武臣たちは文臣たちを追いだし、 朝廷の高官を占めるようになった。

 

 

 武臣たちは高い官位を占めると、 自分勝手に権勢を振り回わすように。

武臣たちの横暴を見かねた顕宗は、 西京留守判官の李子琳(イジャリム)を呼んだ

 

「国王、 雲夢(うんもん)の宴を開きましょう」

 「ではすべては卿(きょう)に任せる」

 

 「雲夢の宴」 の由来は、 中国の漢の高祖代の頃から始まったことが由来とされる。

それは、

臣下の中で、勢力の強い韓信(かんしん)という人が反乱を起こそうとする。

その 気配を悟った高祖は、 韓信のために雲夢という所で大きな宴を催す。

そして、 皆が酒にすっかり酔ったのを見はからって、 一同の首をことごとくはねてしまったという話だ。

 

数日後、 西京にある長楽宮で、 武臣たちのための宴が開かれた。

何も知らない武臣たちは、 国王が自ら自分ちのために宴を張るというので、 気分はいっそう浮き立っていた。

酒に酔うと、武臣 たちは前にもまして、 傲慢になっていた。

そうしたところへ、 酒にた いそう酔った武臣の一人が、 文臣めがけて酒の入った杯を投げつけた。 

ところが、 折り悪しくもそれが、 王様の前だったのである。

まさしくこの時、 李子琳(いじゃりむ)が立ち上がり、 叫んだ。

「斬り捨てろ!」

一瞬のうちに19人の将軍が首をはねられてしまった。

 

 

 

 

遼(契丹)は3度目の高麗侵略を準備し始めていた。


1018年12月、契丹は10万の軍勢で再び高麗に侵攻。

 

 

https://www.gwanak.go.kr/site/enews/news/news_view.do?mvid=1364&aid=10288参照

 

 

高麗は西北面行営都統使 姜邯賛(かんがむちゃん)を上元帥に、 姜民瞻を副元帥にし て、 契丹軍に立ち向かわせました。 

姜邯賛 かんがんちゃん

드라마 '고려 거란 전쟁'.. 포스터 찍겠습니다 - 스타연예 - KBS연예

姜邯賛70歳の年で軍を率いた。

 

姜邯賛は、 20万の大軍を率いて安 州に向い、 そこで陣を張った。

敵が興化鎮を攻撃することを予測しての準備だった。

姜邯賛は興化鎮の東方の山裾に、 1万2千名の軍隊を隠して待った。

 

牛の皮を使って、 興化鎮の東にある大川 (現在の三橋川) の水をせき止めて敵が来るのをじっと待ち構えた。

姜邯賛は牛の皮をあるだけ集めてつなぎあわせた。

契丹は牛皮が水をふさいでいるとは知らず・・・。

 

契丹軍はさきの高麗の内乱を聞いていたので

高麗に戦うほどの将軍がいないと決めつけ、 前後をさぐろうともせず攻めた。

 

契丹の騎馬部隊が浅くなった川を渡って大川の真ん中に入ってきた時

牛の皮でせきとめていた川の水を一度に破裂させた。

 

姜邯賛将軍が「牛革をはがせ!」牛革で止められていた川の水があふれだし契丹軍を襲った。

川はたちまち契丹君の死体で埋め尽くされた。

 

そして、山のふもとに隠れていた1万2千の高麗軍が一斉に攻撃を開始。

川から出てきた契丹軍たちは一斉に矢に打たれ、1万名余りの兵士を失った。
 

1019年2月、「早く開京に行こう。 「開京に入れば状況は変わるだろう」

契丹族出身の遼の将軍蕭排押(しょう はいおう)は退かなかった。

[고려거란전쟁 인물열전8] 소배압

契丹は、開京に向かって進撃を続けた。

 

姜邯賛将軍はすでに、 兵馬弁官金宗鉉将軍に、 1万名の軍隊で開京を守らせていた。

さらに、 副元帥の姜民瞻将軍が契丹軍の後にびったりとくっついていた。

契丹軍は開京から10里以上 離れたところにいたり、 前後から高麗軍の攻撃を受けた。

 

蕭排押は唇を嚙み、 すぐに後退命令を出す。

しかし、 退くのも簡単ではなかった。。。

姜邯賛と姜民瞻が、 契丹軍が退く要所要所に軍隊を隠していた。

生き残った6万余名の契丹軍はようやく亀州にたどりついた。

 

 「亀州大捷」⇒亀州大捷は乙支文徳の薩水大捷、李舜臣の閑山島大捷とともに韓国の3大大大捷の一つと言われている。(「大捷」は大勝利の意)

 

亀州では、 姜邯賛が率いる高麗軍の本陣があり、 契丹軍が現われるのを待っていた。

時間がたつにつれ、 戦いは契丹軍側が不利になっていく。

さらに開京を守っていた金宗鉉が1石名の軍隊を率いて、契丹軍を背後から攻撃。 

 

契丹軍はもうこれ以上戦うことはできず、 敗走しはじめました。 

蕭排押に従って生きて帰った契丹軍はやっと2 千名余りに過ぎなかった。

 

 

そしてついに1019年、契丹軍を亀州で大きく打ち負かした。

亀州の大勝により、 30年以上も高麗を悩ませてきた契丹 の侵略は終わりを告げた。

 

 


その後、高麗と契丹の国交は回復し、貿易も盛んになった。

高麗は1125年に契丹が滅亡するまで入朝をすることはなく、江東6州の返還にも応じずに過ぎた。

 

 

 

 

 

 

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姜邯賛の伝説が残る落星台公園

星が落ちた場所、落星台のカン·ガムチャンが生まれた時、空から大きな星が落ちたそうだ。

そのため、姜邯賛が生まれた場所を「落城台」と呼んだ。

高麗時代の名前は금주(衿州)で、生まれた場所はソウル特別市冠岳区奉天洞にある。

 

姜邯賛は勇ましく契丹軍を打ち破った後、自ら官職から退き、自然と文を友にしながら静かに暮らしたといわれている。

 

 

ソウル - 落星台ナクソンデ

「落星垈(ナクソンデ)公園」は、高麗の名将である姜邯賛誕生の地を聖域化した場所。

1973年にソウル市により遺跡地として整備され、現在に至ります。落星垈三重石塔の一層目には「姜邯賛 落星垈」と刻まれており、高さ4.48メートルのこの石塔は姜邯賛塔、姜邯賛落星垈塔とも呼ばれている。 

 

 

 

 

落星垈遺址
姜邯賛が生家跡で、本来の落星垈三重石塔があった場所。

1973年に落星垈を整備する過程でこの石塔が安国寺の境内に移され、石塔があった位置には高さ2メートルの遺墟碑が建てられた。

姜邯賛の誕生地を記念し聖域化した場所が落星垈公園であり、姜邯賛が生まれた場所は遺墟碑のある位置となります。

 

安国祠については北朝鮮にも。

高麗時代からある石塔、安国祠の9層塔のニュース

[北 문화유산] 고려시대 돌탑, 안국사 9층탑 - SPN 서울평양뉴스

북한 노동신문은 11일 민족의 문화유산으로 평성시 봉학동에 있는 안국사 9층탑을 소개했다."고려시대 돌탑인 이 탑은 깨돌로 만들었으며 평면은 정4각형이고 높이는

リンク

www.spnews.co.kr

 

https://www.spnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=66660

 

安国祠

 

安国寺は、カンガンチャンを讃える 安国寺

高麗時代の木造建築様式の代表格である栄州の浮石寺の無量寿殿を模して建てられたもので、姜邯賛の遺影が祀られている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

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第8代王顕宗(992年~1031年、在位1009年~1031年)は太祖王建の息子である安宗と景宗王妃である憲政王后の間に生まれ、高麗初の実録である「7代実録」の編纂と大蔵経の出版などで文化発展に寄与した。

戦争の危機を克服しただけでなく、様々な内政分野でも業績を積んだ。 これにより高麗は第8代顕宗から第17代仁宗まで130年以上続く黄金期に入り、東アジア4国(高麗-契丹-北宋-西夏)間の均衡的国際関係の一軸を担うことになった。 また、その後の高麗王室が顕宗の血統につながるという点で、高麗王朝の中興地主に該当する人物でもある。

 


 

開城にある代々の王陵

 

顯宗の眠る北朝鮮の開京にある王陵

 

2021年現在の様子

 

선릉떼(군) 1릉(고려 8대 현종왕릉)

 

宣陵郡と実陵郡のㅟ市、ㅗ、 ᄅ、陵である。 王建陵の西側から北側にある小路に沿って低い丘を越えると「七陵谷」が出てくる。 墓の主が分からない7つの高麗王陵(七陵郡または七陵台と呼ばれる)が位置していることから付けられた地名。

 

 7つの高麗王陵は2013年、ユネスコ指定世界文化遺産に登録された。 

 

ここから東北側に再び峠を一つ越えると3つの王陵が現れるが、宣陵郡(宣陵群)または宣陵テと呼ばれる。 

萬壽山が西南に伸び始める高くない丘に南向きに造成されている。 過去にはこの村を綾峴洞(陵峴洞)と呼んだ。 王陵があることから名づけられたと推定される 朝鮮後期に位置を失った顕宗陵の西側から東にこの峠を越えれば3つの王陵が出てくる。

 

その中で最も北にある王陵が「宣陵郡第1陵」で高麗8代顕宗の陵と推定される。 

 

『高麗史』によると、顕宗は1031年(顕宗22)5月、重光殿から崩御して松岳山の西側の麓に葬儀を行ったという。

陵湖は宣陵(宣陵)だ。

朝鮮建国後、世宗の時までは顕宗の宣陵は守護人がいて、ある程度管理されたものと見られる。 

しかし、朝鮮中宗の時になると、宣陵は草木が茂り、周辺に古い墓が多くて、どの墓が宣陵なのか見分けがつかないほどになった。 壬辰倭乱と丙子胡乱を経て、宣陵をはじめとする大部分の高麗王陵の管理がさらに疎かになった。 

 

朝鮮顕宗の時の記録を見れば「すでに封土は全て毀損され、四面石物は大部分埋没され、どれが顕宗の陵なのか正確に分からなかった」と言うほど宣陵は荒廃化した。 

その後、宣陵はある時点で復元され、朝鮮時代の高宗の時に王陵の標石を建て、山番を置いて管理したが、何度も盗掘されたものと見られる。 

1905年(大韓光武9年)に「高麗·顕宗·宣陵(宣陵)の山番が報告するには、『旧暦の正月14日の夜、知らないある者が陵を崩しました』というので、すぐに駆けつけて奉心すると、陵が崩れたところが3分の1にもなり、前面の掘ったところは深さが3、4尺ほどありました」という記録が残っている。 

 

このような記録を見ると、顕宗宣陵は16世紀になって陵の位置が分からなくなり、新たに宣陵の位置を把握したのは朝鮮後期であり、大韓帝国時期と日帝強占期を経て今まで宣陵郡第1陵を宣陵と認識していた。 

 

原型が毀損された宣陵郡第1陵高麗顕宗の陵と推定されてきた宣陵郡1陵は、緩やかに伸びた山の麓を整え、長軸を東西にする長方形で築造されている。

 

「 工甘.の中心部位に墳丘が位置し、左右に望柱石が立っている。 北朝鮮の調査によると、墳丘はまず屏風石を12角に築造した上に造成し、墳丘の高さは2.25メートル、直径は9メートルだ。 

 

屏風石の下の部分は埋没しており、面石には十二支神像が彫刻された。 十二支神像は陵墓を保護する機能として刻まれ、ほとんどが門服を着て手に穴(笏)を握っているきびじん神(獸首、動物の頭に人の体)の姿をしている。 

 

1910年代に撮影された写真を見ると、1867年(朝鮮高宗4)に建てた標石が残っており、文人石1組が立っていたが、西側の文人石は倒れている状態だった。 3段は何の石造物もなく空いていて、4段に文人石1組が立っていたが、東の文人石は正面を凝視していた。 

 

1960年代、北朝鮮が調査する際、花崗岩で2段と3段に積んだ築台が大部分埋没した状態であり、朝鮮高宗の時に建てた陵碑は消え、亭子閣(丁 字閣)跡では礎石2個と瓦の破片だけが発掘されたという。 一つ注意すべき点は、現在北朝鮮が宣陵の姿だと公開する写真は、我々が知っている宣陵郡第1陵ではないという点だ。 

 

2021年、北朝鮮のオンラインメディアである「わが国」は宣陵郡3陵の写真を宣陵郡1陵に、宣陵郡2陵の写真を宣陵郡3陵に紹介した。 また、宣陵郡1陵の過去の姿を写した写真は宣陵郡2陵で紹介した。 

チャン·ギョンヒ教授が2000年代に撮影した高麗王陵の写真を収録して出版した「高麗王陵」にも宣陵郡第1陵を説明しながら実際には第3陵の写真を、第2陵を説明しながら第1陵の写真を、第3陵を説明しながら第2陵の写真を紹介している。

 

つまり、宣陵郡の3つの王陵に対する説明は既存の通説に従い、写真は北朝鮮の写真説明に従って配置したため、王陵に対する説明内容と写真が一致しない誤りが生じたのだ。 

 

北朝鮮メディアの報道が間違っていないなら、北朝鮮学界は時期は正確ではないが、宣陵郡(ソンルングン)の王陵に対して、従来の方式ではなく、最も東にある王陵から順に1陵(既存の3陵)、2陵(既存の1陵)、3陵(既存の2陵)に変えて指し始めたものとみえる。 実際、北朝鮮が建てた宣陵郡標石は、宣陵郡3陵の前に立っている。 

 

しかし、このような紹介や説明は朝鮮後期以来、一般的に通用してきた指称とは全く異なるものだ。 日帝強占期の時に撮影された写真と比べてみると、北朝鮮が宣陵郡第1陵と紹介した写真は宣陵郡3陵を撮影したことが明らかだ。 

だからといって、北朝鮮が宣陵郡第3陵を宣陵と見ているのかも不透明だ。 

第3陵は3段ではなく4段で造成されており、北朝鮮の学者たちの論文でも宣陵郡1陵を宣陵と推定してきたためだ。

 

施策が発掘された七陵郡第1陵最近では、顕宗宣陵の位置が朝鮮後期に誤って比定され、宣陵郡第1陵南側付近にある七陵郡第1陵が宣陵である可能性もあるという主張が提起された。

 

特に注目すべき遺物は、七陵郡第1陵から出た施策(玉冊)の彫刻だ。 この王陵では白色大理石を加工して作った施策が破られたまま発掘されたが、「ワルシン(日新)」、「アファン(我皇)」、「ワンミョ(廟)」、「チャン(章)」、「フィホ(徽號)」、「シワル(諡日)」、「ワルヒョン(顯)」、「ガンイ(艱而)」、"スン(崇)"、"ホン"サン"などの文字が解読可能だ。 ここで注目される単語が「シワル(諡曰)」、「ワルヒョン(日顯)」だ。 もし、二つの単語の間に抜けている文字を「時ワル原文」「妙法ワル顕宗」と推定すれば、この墓の主人公は顕宗になる。 解読可能な文字の中に「揮毫」があるため、この墓が王后陵だと判断することもできる。 朝鮮時代の「揮毫」は王妃が崩御した後に諡号と共に捧げる名称で、王妃だけに捧げたためだ。 

 

高麗後期にも「揮毫」という用語は主に王后に使われたものと見られる。 

しかし高麗初期には「王が自ら太廟に祭祀を行い、先王と先後の徽を付け加えた」

(『高麗史』3巻目宗5年)という記録のように王と王妃の両方に使われた用例も見られる。 

七陵郡第1陵が顕宗の宣陵である可能性があるという推定は暫定的であり、まだ確実な根拠はないと言える。 

ただし現在としては宣陵と知っている「宣陵郡1陵」を顕宗の墓と断定するにも色々な無理が伴うという点だ

。 ー その ㄹ その 1 ル 顕宗

 

o □ 02.4m 8m 07m 菱形1m 菱形内部構造実測も7m 菱形1m 外部構造実測も習的にこの墓を宣陵と認定し、日帝強占期の日本学者たちの調査の時もこれを受け入れた。 特に文献記録だけで見れば、七陵郡第1陵よりは、宣陵郡第1陵が顕宗の王陵である可能性が高いと見られる。 『高麗史』によると、玄陵は松岳山の西麓(西麓)にあると記録されている。 宣陵郡第1陵は現在の基準で見れば、萬壽山の東側稜線にあるが、高麗時代の人々はここを松岳山の幹が西側に伸びた麓だと認識することができる。 したがって、宣陵郡第1陵が顕宗宣陵という通念は、決定的な物証が出るまでは覆すことが難しいようだ。 ただ、顕宗宣陵が七陵郡1陵である可能性を念頭に置いて、もう少し綿密な調査が必要だろう。 何よりも宣陵郡第1陵は何度も盗掘され破壊され復元される過程を経て原型を知ることができなくなった。 現在残っている石人像の位置も異常であり、石人像自体も高麗後期に再び作って建てた可能性がある。 陵主を確定するためには、発掘により内部の墓室の構造や遺物を確認する必要があるだろう。141

 

宣陵郡の他の2つの王陵も、衰退宣陵郡1陵から南に直線距離280mほど離れて2陵が位置し、第1陵から南東側に150mほど離れて3陵がある。 2陵と3陵も現在、墓の主を知ることができない。 宣陵郡2陵は高麗中期の王后陵と推定されるが、発掘して冠帯の形式、遺物部長帯の存在有無などを確認してこそ正確な造成時期を判断できるだろう。 宣陵郡2陵は陵域がひどく毀損されている。 現在は墳丘を含めて2段まで残っているが、2段前に丁字閣があったとすれば高麗初期の典型的な3段構造で造成されたと言える。 墳丘の高さは2.25メートルで、直径は9.8メートルだ。 1963年、北朝鮮が調査した当時は文人石が2段西側に1個残っていたが、現在は全て消えた。 この王陵は高麗中期の王后の一人の墓である可能性が高いと推定される。

 

宣陵郡3陵は4段構造で築造され、現在1段に墳丘と欄干石、石水などが一部残っている。 1段東西両側には八角で精巧に加工した望柱石が立っている。 墳丘の前面には屏風石がそのまま残っているが、花崗岩の板石でできた面石には十二支神像が彫刻されている。 墳丘の高さは2.55メートル、直径11.6メートルだ。 2-3段には文人石2組ずつ計4つが配置されている。 4段には元々亭子跡があったが、道路ができてなくなった。 宣陵郡3陵は、陵域構造と墳丘の大きさなどを考慮すると、忠恵王の霊陵と推定できるが、発掘によって内部構造を確認するまでは断定できない。

 

年4月8日から3日間、昼夜を問わず弥勒菩薩会を行い、両親の冥福のためには毎年7月15日から3日間、昼夜を問わず三田仏会を開いたと記録されている。 顕宗が特別に顕和寺を創建した理由は、彼の出生秘密とつながっている。 顕宗は2度の契丹の侵入を収拾し、高麗王朝の基礎を固めるのに大きく寄与した君主と評価される。 廟号である県(顯)の字は「業績が国の中、外に広く知られた」という意味を含んでいる。 しかし、彼には「私生児」という致命的な弱点があった。 歴代の韓国王朝の中で庶子出身の君主は多数出てきたが、両親が正式な結婚式の手続きなしに私生児として生まれた君主は高麗の顕宗が唯一だ。 顕宗は元察を立てて私生児である本人を産み、苦労して亡くなった両親の安宗と憲政王后の冥福を祈り、彼らの名誉を回復させようとしたのだ。 ただ、私生児という弱点を除いて、親の血統だけを考えると、顕宗の正統性は明確だった。 顕宗の父は安宗に追尊される王旭であり、母は景宗の王妃であった憲政王后黄甫氏であった。 憲政王后は景宗の死後に私邸に出て暮らしていたが、この時に王旭との情を通じて子供を持つようになったという。 この事実が知らされ、ワンウクは今の慶尚南道泗川の泗水県に配流され、憲政王后は子供を産んですぐに世を去った。 この子がまさに王順、すなわち後日の顕宗だ。 彼が国王の座につくようになった過程は非常に劇的だった。 憲政王后は当時国王だった成宗の実の姉だったので、顕宗は成宗の実の甥だ。 顕宗は成宗の配慮で乳母の手で育ち、流刑地にいた王旭に送られ、一緒に暮らした。 その後、大陽院君(テヤンウォングン)に冊封され、王旭が死亡した後は

 

五官山から見下ろした霊通寺。 霊通寺から右側の山の稜線を越えると小陵郡が出てきて、左側に山を越えれば武陵と元陵が出てくる。 正面にある峰の向こうに恵宗順陵が位置している。 再び開京に戻った。 しかし、成宗が死亡し、高麗7代目の穆宗が即位した後、政治的な牽制に苦しむことになった。 当時、権力を握った木宗の母親である千秋太后(千秋太 后)は、幼い顕宗を強制的に髪を剃って崇教寺に入れ、その後、神穴寺に移した。 千秋太后は何度も人を送り、顕宗を害そうとしたという。 ところが1009年(木鐘12)に突発的な状況が起きた。 30歳の若さだった木種が急に病気になって危篤になり、後継問題が台頭したのだ。 息子がいなかった木宗は側近たちと相談し、当時唯一残った太祖の孫である大量援軍ワンスンを後継者に定め、神穴寺にいたワンスンを呼び寄せる一方、西北面を守っていたカン·ジョ(康兆)を呼び、護衛を任せた。 しかし、木宗の母親である千秋太后と貞を通じた金治陽が政権を握ったと誤解した姜祖は、開京に到着した後、木宗を廃位し、王順を継いだ

 

王に擁立した。 すなわち、顕宗はもともと木宗の指名を受けて正常に後継になることができたが、思いがけない政変で非正常に即位したのだ。 紆余曲折の末に王位に就いたが、顕宗は2度の契丹の侵入を防ぎ、軍県制の実施で中央集権的な政治体制を樹立し、約100年間続いた高麗の全盛期を開いた。 特に1018年(顕宗9)に始まった契丹との戦争(「第3次高麗-契丹戦争」)ではカン·ガムチャン(姜邯贊)が率いる高麗軍が貴州で決定的に勝利(貴州大捷)することにより、顕宗は高麗の国際的な地位を高め、11世紀の活発な国際交流時代を開く礎を築くことができた。