1970.12.12 ~ 第11・12代 全斗煥 大統領 ~ | みょんじゃさんのブログ

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新軍部の登場と民主化闘争・反乱を引き起こした首謀者は、国軍保安司令官の全斗煥でした。 

全斗煥と軍人勢力は政権を握るために自分たちの上司を逮捕し、軍の指揮権を奪いました。 

この行為を行った勢力を「新軍部」と呼びます。

 この事件が1979年12月12日に起こったため、「12-12軍事反乱」と呼ばれています。

 

 

 

 

国民は早く新しい憲法を作り、選挙を通じて民主政府が誕生することを望んでいました。 しかし、その期待を裏切り、新軍部が権力を握ったのです。

 

 上司を追い出し、軍の指揮権を手に入れた全斗煥は、国内情報を担当する中央情報部長になりました。 "全斗煥は退陣せよ!"

 

 "早急に民主的な憲法を作り、新しい政府を構成せよ!" 大学生たちが先頭に立って軍事政権に反対し、一般市民も同じ考えを持っていました。

 

 新軍部は1980年5月17日に国会を解散し、金大中ら政治指導者を捕らえて投獄しました。 

集会もできないように阻止しました。

 

 1980年5月18日、光州の大学生たちが民主化デモを行いました。 デモ隊の前に武装した兵士たちが現れ、市民に向かって発砲し始めました。 

 

棍棒を振り回す兵士もいました。 数十人がその場で殺されました。 「国民の命を守るべき兵士たちが、国民に向けて銃を撃っているんです!」

 

 

 

 

「私たちも銃を持って戦おう。 私たちの命と家族を守りましょう。」 市民たちは警察署や予備軍本部に押しかけ、武器を持って軍隊に対抗する市民軍を組織しました。 新軍部は非常事態を宣言し、光州を封鎖しました。 その後、市民軍が集まっていた全南道庁を攻撃しました。 この時、亡くなったりどこかに連れて行かれた市民が224人、重傷を負った人も3,000人を超えました。

 10日間にわたって起こったこの事件を5:18民主化運動と言います。

 

 

 

 

全斗煥と盧泰愚をはじめとする新軍部は5月31日、軍事政府を作り、自分たちの意志で新しい憲法を作った後、全斗煥を新大統領に選びました。 

しかし、国民は彼らと戦った市民の犠牲を忘れませんでした。 

その後、毎年5月になると多くの学生や市民が街に出ました。 

「国民をむやみに殺し、権力を握った全斗煥は退くべきだ!」 

デモに参加する学生や市民は年々増えていきました。

 

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全斗煥

家の経済事情から士官学校受験を選択した。朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学(11期)。同期には盧泰愚らがおり、後に朴正煕の黙認の下、朴政権の軍内親衛グループである秘密結社「ハナフェ」を彼らと共に形成する。

1961年、ソウル大学のROTC教官だった際に朴正煕がクーデターを起こすと支持を表明し、陸軍士官学校の生徒にクーデター支持行進を行わせた。

この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。その後は首都警備司令部第30警備大隊長として青瓦台襲撃未遂事件の対処に当たった後、ベトナム戦争に第9師団第29連隊長として参加し帰国した。

 

1979年10月26日に朴正煕暗殺事件が発生し非常戒厳令が布告されると、暗殺を実行した金載圭を逮捕するなど、戒厳司令部合同捜査本部長として事件の捜査を指揮する。しかしその過程で強大な権限を掌握して政権の実力者としてその名を挙げられるようになったことから、陸軍参謀総長兼戒厳司令官鄭昇和大将と対立を深め、ハナフェの存在も問題視していた鄭昇和によって排除されそうになったため、同年12月12日、先手を打ってハナフェメンバー及び後援者と共にクーデターを実行し、鄭昇和を逮捕する(粛軍クーデター)。

クーデター時には一時行方不明になっていた盧載鉉国防部長官を捜索・発見して鄭総長逮捕の決裁を強要させて自らの行動に関して正当性を持たせ、加えて保安司令部の権限を活用して鎮圧軍側の情報通信を把握して対処し、合わせて鎮圧軍側への懐柔工作も行い、被害者を最小限に留めた。これらの出来事を当時大統領の崔圭夏は就任直後という事もあり黙認せざるを得ず、クーデターは成功した。以降、軍首脳部はハナフェとその後援者によって固められ、全斗煥はこの「新軍部」の中心人物となった。

翌1980年には中将に昇進し、保安司令官在職のままKCIA部長代理を兼任。

5月17日、全国各地で多発する労働争議や学生デモに対処すべく、新軍部と共に全軍主要指揮官会議を招集して戒厳令拡大と国会解散・国家保衛非常機構設置を決議させ、崔圭夏大統領の追認の下5・17非常戒厳令拡大措置を実施。クーデター後に金大中(軍法会議で死刑判決を受けて後に無期懲役に減刑されるものの、アメリカに出国)を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍部隊を送り、市民が多数虐殺された(光州事件)。また、光州事件後、国家保衛非常対策委員会を組織して国政を事実上掌握。社会悪一掃特別措置を発表し、社会的に弱者とされる失業者やホームレス、あるいは犯罪者や学生運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍隊の「三清教育隊」で過酷な訓練と強制労働を課した。

 

特に後者は暴行などで52人の死者を出し(後遺症の死者は397人)、2768人に精神障害を残すなど計り知れない傷跡を残した。あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられたという。逮捕された者の中には光州事件に連座した高校生や主婦、14歳の女子中学生も含まれていた。

同年8月に崔圭夏が大統領を辞任したことに伴い、同月27日統一主体国民会議において大統領に選出され、翌9月1日に第11代大韓民国大統領に就任。憲法改正を実施して翌1981年に第12代大統領に選出され、同年から第五共和国政府がスタートした。

なお、全斗煥が第11代大統領に就任した直後の1980年10月10日に北朝鮮の金日成主席は第6回朝鮮労働党大会で連邦制による朝鮮統一案として「高麗(コリョ)民主連邦共和国」設立を訴えたが、この案を全斗煥は拒否した。

1982年には、長年続いた夜間外出禁止令を解除した。ほぼ同時期に第一次教科書問題が発生し、これを批判した。

ただし、これは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていたが、日本は呑めないということで膠着していた全斗煥が、自らの独裁権力の強化のために、日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある[要出典]。同年、韓国でプロ野球がスタートし、他にプロサッカーをスタートさせたり、ソウルオリンピックの開催に取り組んだことには、国民の関心を政治から娯楽にそらす狙いがあったともいわれる。

1982年9月から1984年12月にかけて、全斗煥政権下で、学生運動経験者らを対象とした緑化事業が実施されたとされ、強制徴兵や純化教育、情報提供活動の強要などを含む統制・再編政策が行われたとされる。また、この過程で自殺および他殺とされる事例により6名が死亡したとされる。

1983年にはミャンマーのアウンサン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生する。彼自身は難を逃れたものの、事件で多くの閣僚が犠牲になった。

さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。

また、中国民航機韓国着陸事件も起きた。

訪韓したレーガン大統領と(1983年11月13日)
1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど、日本と向き合う姿勢を強調した。

また、来日した全斗煥は1986年アジア競技大会に向けて中華人民共和国と国交のある日本の中曽根康弘内閣総理大臣に対して中韓と日朝が同時に国家承認する計画への協力を要請した。

 

これを受け、1986年に訪中した中曽根首相は、親交のある胡耀邦総書記に対して中国に国交樹立、またはLT貿易事務所や通商代表部の設置、韓国も加えた朝鮮戦争休戦協定当事国との4者会談。

1988年のソウルオリンピックへの参加を要望する全斗煥の意向を伝えて日朝貿易も行う用意があると述べた。

後に1986年アジア競技大会とソウル五輪への中国の参加や中韓国交正常化は実現するも、この時点で胡耀邦総書記は韓国の対中姿勢を評価しつつ北朝鮮の反発を理由にこの提案に否定的だった。

日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、反政府活動の取り締まりも強化し、大学生の副業の禁止や卒業の制限、学生運動に関連した学生を強制的に入営させて密告やスパイを奨励させる「緑化事業」を行った。

また、全斗煥政権下では国家保衛立法会議によって朴正煕政権時代に制定された反共法が国家保安法に統合される形で廃止されると共に、言論基本法が制定され、言論統廃合が行われている。全斗煥の大統領在任中テレビでは、全政権批判は一切許されず、韓国標準時21時の「KBSニュース9」や「MBCニュースデスク」が必ず全斗煥賛美のニュースで開始されたため、テンジョンニュース等と揶揄された[注 1]。

1986年以降、民主派勢力の大統領直接選挙とそれに必要な憲法改正を求める運動が活発化する。

1987年1月、民主化運動に関わっていた大学生朴鐘哲が警察の拷問により死亡したことが判明、政界・宗教界等あらゆる分野から批判の声が上がった。

6月9日、機動隊がデモ隊に催涙弾を発砲し、大学生李韓烈の頭を直撃し、昏睡状態に陥る。

全国で30万を超す人間がデモに参加、政権打倒と直接大統領選挙を要求する事態となった(6月民主抗争)。

高まる民主化要求の前に、もう一人の軍出身の有力者であり長らく全斗煥の協力者で次期大統領候補とみなされていた実質政権No.2の地位にあった盧泰愚・与党代表委員が事態収拾のため民主派勢力に大幅な譲歩する提言を行った(6・29民主化宣言)。

全斗煥も受け入れざるをえなくなり、7月1日、その旨テレビ・ラジオの特別談話で発表するに至った。

7月5日、李韓烈は死亡、葬儀には百万人が集まる。

同年暮れに大統領直接選挙が行われ、民主派は有力者2名を一本化できず、盧泰愚が当選、翌年2月よりその職につく。

全斗煥やその支持者らは当初、朴正煕は腐敗していたが全斗煥はクリーンだと主張していたが、実際にはその腐敗蓄財ぶりは桁外れのものであった。そのため、全斗煥に対しては独裁者、虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展やオリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという保守派からの擁護論もある。

退任後には自ら財団を設置した他、国家元老諮問会議(朝鮮語版)議長に就任して院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、

1988年4月13日に国家元老諮問会議議長を辞任。

同年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明し、江原道の百潭寺(朝鮮語版)で隠遁生活を送った。その後も光州事件に関する内乱罪や不正蓄財疑惑への追及が止まず、1995年12月3日に拘束。

1996年8月26日、第一審で内乱罪で死刑判決を受けた。

1997年12月22日に減刑の後、特赦。

金泳三大統領は、あらたに大統領に当選した金大中の「結者解之」(自分の過ちは自分で解決しなければならない)との提言を入れて全を釈放した。 金大中がこれ以上罰を全に与えることは政治報復に映る恐れがあり、全羅道出身の金大中が慶尚道出身の全を処罰することによる地域対立感情への影響やノーベル平和賞を得るためのイメージを考慮したともいわれる。

一方で、1997年には全には不正蓄財で追徴金2205億ウォンを課す大法院(最高裁に相当)判決が出ている。

現金に加え、自宅などが競売にかけられ、合わせて4分の1相当の533億ウォンが支払われたが、巨額の未払いが残っていた。

2003年には隠し財産があると見た検察が「財産明示申請」を出し、全斗煥元大統領が裁判所に呼ばれた。この場で「財産の額」を問われ、「通帳にある29万1000ウォンだけだ」と答え、信用できないと国民の怒りを買った。

2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。

2013年、いわゆる「全斗煥追徴法」が成立し、時効を延長、一族の不正蓄財に対する強制捜査が行われ、同年9月10日、滞納が続いていた追徴金の未納分1672億ウォンについて、完済すると発表した[29]。しかし、期待されたほどの値がつかず、計画通りに返済は進まなかった。

一族の隠し財産は海外にもあることから、とくに米国での隠し財産の没収と調査も進められた。

この間、検察の捜査などを受けたことがきっかけに記憶喪失を起こしその後アルツハイマーの診断を受けたと主張し、2018年8月28日の名誉毀損罪で起訴された刑事裁判の出廷を拒否した。

しかし、アルツハイマーと診断されたと主張している2013年以降も外部の行事に何度も出席し、2017年に回顧録を出版(後述)していることなどから、アルツハイマーのため出廷できないとの全斗煥側の主張は疑問視されている。

2019年1月16日には、全斗煥が2018年12月にもゴルフ場でゴルフをしていたという目撃証言が報じられ、病状に対する全斗煥側の主張への疑問はさらに深まり、批判が高まった。

2017年に出版された回顧録の中に軍を指揮して対応した光州事件に触れる記述があり、後に遺族より死者に対する名誉毀損の罪に問われた。

2017年8月19日までに光州地方裁判所は、回顧録の発売を禁止する仮処分を下したことに続き、2018年5月には全斗煥を在宅起訴。

2019年3月11日には、裁判所からの強制出頭命令を受け、全斗煥が出廷した。

以降、全斗煥は再び裁判を欠席し続けているが、本人が高齢であることや警護上の理由から裁判所は本人の欠席を認めている。

しかしその一方で、2019年12月には粛軍クーデター40年を記念するパーティーに出席していたことが報じられ、再び批判が高まった。



2020年11月30日、光州地裁は全斗煥に対し懲役8ヵ月、執行猶予2年を言い渡した。
2021年8月9日、全斗煥は裁判中に呼吸困難を起こしたため裁判の途中で退廷し、8月13日に延世大学病院(朝鮮語版)に入院した。

8月21日、韓国メディアは全斗煥が多発性骨髄腫を患っていると報じた。

全斗煥は2021年11月23日午前、ソウル市西大門区延禧洞の自宅で死去した。

90歳没。

 

盧泰愚の死からわずか1か月後の出来事であった。国葬が営まれた盧泰愚と異なり、国葬や葬儀への政府レベルでの支援は行われず、国立墓地への埋葬も見送られた。元大統領の国葬が見送られたのは、今回が初めてである。

また、青瓦台は、葬儀に弔花や弔問の計画はないと明らかにした。これは民主化運動弾圧に対して、盧泰愚が反省の意を示したのに対し、全斗煥自身は最後まで反省の意を示さなかった影響が強いと思われる。

2023年3月、全の孫チョン・ウウォンが不正蓄財疑惑についてYouTubeなどで暴露、また、1980年の光州事件について被害者らに謝罪したいと表明した。

同月28日、チョンが米国から韓国に帰国、YouTubeで薬物使用も示唆していたため、仁川国際空港で警察が薬物使用容疑で逮捕している。