文定王后の死 文定王后は仏教を信仰しながら、僧侶の宝を崇めていました。 宝に高い官位を与えるよう、明宗に要求しました。 「ボウ僧侶は本当に偉大な方です。 その方に会えば、世の理が見えてきます。 ですから、高い官位を授けるのは当然ではないでしょうか?」 文定王后の言う通り、ボウは本当に優れた僧侶でした。 15歳で金剛山の摩訶岩に出家し僧侶となりましたが、経典はもちろん、易経や儒学にも通じた人物でした。 1548年、保宇は文定王后の命により奉恩寺の住持となりました。 その後、文定王后は仏教を興しました。 燕山君の時代にはなかった僧侶の科挙制度も、再び復活させました。 「朝鮮は建国初期、太祖大王の時代から儒学を重んじてきた。」 今になって仏教を立てようとするとは、全くもって無理なことです。」 「国の規律を崩す凶悪なボウを退けよ。」 全国の儒者たちが蜂の群れのように立ち上がり、ボウの処罰を求めましたが、文定王后は最後までボウを守り続けました。 明宗はそんな文定王后を理解できませんでした。 文定王后と儒生たちが互いに命を賭けて対峙している中、明宗はどうすべきか分からず、ため息だけをつきました。 「お母様があれほどまでにボウを包んでくださるとは、どうすればいいのだろう……」
そんな中、文定王后が明宗に手紙を送りました。 それは、ボウの官位をさらに上げてほしいという内容でした。 明宗はその要求に応えるどころか、何の返答もしませんでした。 そこで文定王后は明宗を訪ねました。 「敢えて私の意志に逆らうとは、何事ですか。」 本当にすごいです、主上。」 声を張り上げて叫んでいた文正王后は、王の頬を叩くまでしました。 しかし、勢いのあった文定王后でさえ、時の流れの前ではどうしようもありませんでした。
1565年4月7日、65歳でこの世を去ってしまったのです。
文定王后が亡くなると、民は喜んで踊り、歓喜しました。 「いまこそ国の規律を正す時が来た。」 調整官たちは皆、一斉に奸臣たちの罪を暴き出しました。 「陛下、ボウとユン・ウォンヒョンを極刑に処し、彼と共に政務を乱した者すべてを罰しなければなりません。」 明宗は保宇を済州島へ流刑し、尹元亨は官職を奪い、身分を平民に落とすことにしました。 この知らせを聞いたユン・ウォンヒョンは、チョン・ナンジョンと共に田舎へ逃げ、隠れて暮らしました。 ユン・ウォンヒョンはある日、人々がささやく声を聞きました。 「ああ、そうですね、ユン・ウォンヒョンの元妻キム氏の家系で、ユン・ウォンヒョンとチョン・ナンジョンがキム氏を毒殺したと告発したんですよね。」「恐怖に震えていたユン・ウォンヒョンは、チョン・ナンジョンに硬い表情で言いました。」 「まもなく人々が私たちを知り、官庁に知らせてくれるだろう。」 国が私たちを捕まえに来たら、その時に一緒に死んでしまおう。」
数日後、ユン・ウォンヒョンは外に出たところ、文士道士が自分たちを殺しに来ているという話を聞きました。 すぐに家へ走って行ったユン・ウォンヒョンは、事前に用意した毒酒を飲み、チョン・ナンジョンと共に自ら死んでしまいました。 しかし、文士道士が来るという話は、ある駅卒の冗談に過ぎませんでした。 その後、明宗は朝廷の秩序を取り戻すために尽力しました。 しかし、文定王后のせいで胸の痛みがひどくなったためか、明宗は1567年6月に34歳という若さで亡くなりました。 さらに、後継者もいないまま亡くなったため、やっと安定を取り戻した朝廷に再び暗雲が立ち込めていました。