1918年(大正7年) ~ 米騒動 と 添田唖蝉坊 ~ | みょんじゃさんのブログ

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祖母ちゃんが生まれる1年前はすごかった!!

 


亜蝉坊の号は自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したことに由来


叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、

1890年(明治23年)、壮士節と出会う[1]。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も盛んだった。

唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、

 

1892年(明治25年)の作である。これ以降、「チョイトネ節(紫節)」[2]、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。

 

1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。

著作において、街角で読売による壮士節、法界節ととも歌本を売っていたものに演歌師という呼び方を多く用い、「演歌とは演説の歌だ」と説いた[3]。

1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年、長男の添田知道(芸名・添田さつき)が生まれ、この年に東海矯風団を起こす。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込む「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、

1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。

 

幸徳秋水・堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」(「大臣大将の胸元に ピカピカするのは何じゃいな 金鵄勲章か違います 可愛い兵士の髑髏 トコトットット」)を作詞。

 

1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になり、亜蝉坊の演歌は社会主義伝道のための手段になる。

しかしこうした歌は取締りの対象となったため、風俗を歌った「むらさき節」を作った。

1910年(明治43年)、妻のタケが27歳で死去した。

唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられることになった。

やがて唖蝉坊は当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。

当時、下谷山伏町は、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。

 

 

「増税節(ゼーゼー節)」は、

1917年 ソビエト政府をレーニンが設立

1918年 大正7年 7月 米騒動~全国へ広がる

8月 シベリア出兵

物価上昇・賃金が追いつかない

シベリアにコメが送られることを恐れて売り渋りが起きた。

 

米騒動が富山で起きたことは都市での需要と供給が追い付かないことも背景にあり

全国に広まったが・・

新聞による報道によって広まったこともあり、

★政府が検閲し、削除した。

米騒動は近世の話だと思っていたのに、普通選挙にもなり民主化したのに!

暴動が起きたのがショック!

★国は仕方なく、軍を配備しておさまった。

 

そんな背景をうまく歌にしたのが添田唖蝉坊

痛烈な社会風刺や金権政治への批判を表現している♪

 

 

唖蝉坊はその後、全国行脚をしながら屑屋の二階に居候して死去。

1944年(昭和19年)2月8日  死去

 

浅草寺の弁天堂鐘楼下に添田唖蝉坊の碑が、添田知道筆塚とともにある。

墓所は小平霊園。