ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている
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ノルマントン号事件
1860年4月7日 - 1927年10月10日)は、フランス人の画家、挿絵画家、漫画家、銅版画家。
1860年にパリで生まれる。父は官吏、母はパリの名門出身の画家。母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始める
4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなる。1871年3月から5月にかけてのパリ・コミューンでは、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチして回っている
1872年にエコール・デ・ボザールに入学して絵を学ぶが、家計を助けるために1876年に退学して挿絵の仕事を始める。在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画で知られるカロリュス=デュランの指導を受けた[2]。退学後、サロンに出入りして、日本美術愛好家として知られたフェリックス・ビュオやアンリ・ゲラールから日本美術についての知識を得[3]、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールなどからもジャポニスムを知るようになる
1878年、フェリックス・レガメが旅行記『日本散策』を出版、同年のパリ万国博覧会では浮世絵と出会って興味を抱く。
この頃銅版画の技法を学んだ。
また1880年には美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日本美術』の挿絵を一部担当した。
1881年にはエミール・ゾラの小説「ナナ」の単行本向けに挿絵17枚を寄稿する(複数の挿絵画家の一人)。
人気作品の挿絵を担当したように、フランスで既に一定の知名度を得ていたが、日本への思いは強く、渡航を決断する。
陸軍大学校で当時教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、この年の暮れにマルセイユ港を発ち、1882年(明治15年)の1月、21歳のときに訪日した。
陸軍士官学校では記録用に写生を正課として教えていた。ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て[6]、1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができた[7][注釈 3]。この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している。日本の社会を知る目的もあって、遊廓にも出入りする生活であった。しかし、講師の契約が切れると洋画を教える場所はなかった。幸い、自費出版した画集は外国人居留地に住む外国人から好評を得たことから、ビゴーはその後も居留地の外国人(主にフランス人)向けに絵を描くことで日本に住み続けることとなった。
ビゴーは上記の通り浮世絵に興味を示し、訪日後はその習得にも関心を示したが、深入りすることはなかった。それは、当時の日本では江戸時代のような浮世絵が既に作られなくなっていたことに加え、浮世絵に描かれた世界が庶民生活の中にはまだ残っていることに気づき、日本での生活から自らの芸術の題材を見つけようとしたためであった。
ビゴーは当時の日本の世相を版画・スケッチなどの形でときには風刺も伴った絵に表現した。
当時の彼の作品には日本人が興味を持たなかった(当たり前すぎて題材にしなかった)ものも多く題材としており、今となっては貴重な資料ともなっている。
1885年、『改進新聞』の専属画工になった。その折の紹介記事では「仏国の江戸ッ子なりと自称せり」とある。
1885年と1886年 - 1887年の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教える。ビゴーは中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる。
1886年にはいったん帰国を検討するが、フランスの『ル・モンド・イリュストレ』やイギリスの『ザ・グラフィック(英語版)』といった新聞から日本を題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在を延ばした[9]。この頃には『團團珍聞』への漫画の寄稿(1885年)や『郵便報知新聞』に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年)など、日本の大衆の目に触れる仕事も行うようになる[10]。ビゴーはフランスでは漫画を描いたことはなく、日本で『團團珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心のメディアに接して、自らも漫画に進出した。
ビゴーが残した風刺画の中には影絵の形式で複数のコマを並べてストーリーに仕立てたものがある。4コマ漫画との関連について、清水勲は、ビゴーは7~10コマの複数のコマを使用しており、ビゴーが描いた4コマ漫画は日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記している。とはいえ、清水は「ビゴーはヨーロッパの比較的長いコマ漫画のスタイルを日本にもたらした」とも評している。
報道画家の仕事で経済的な基盤ができたこともあり、
1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊し、日本の政治を題材とする風刺漫画を多数発表した。
同年、先行する『ジャパン・パンチ』は終刊した。発行していたチャールズ・ワーグマンは、ビゴーの絵のうまさを見て決意したという見方もある。ビゴーは『トバエ』第5号で「さらば!わが友」と題して、ピエロ(ビゴー)が侍(ワーグマン)を見送る絵を載せた。
ビゴーは条約改正には当時の居留民に同調して時期尚早であるという立場を取る。当時の『トバエ』には中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた[14]。彼らは政府批判という面で協力したとみられている。日本語のキャプションが付されたのは、ジャーナリストに影響を与えることを目的に日本の新聞社や雑誌に送付していたためであった。
なお、清水勲は、ビゴーが『トバエ』で主張したことについて、
条約改正は時期尚早である。
明治政府は国民の反対を押さえて条約改正を強行しようとしている。
日本の近代化にはまだ時間がかかる。
の3点を指摘している。
『トバエ』36号に掲載された磐梯山噴火に関する風刺画
「磐梯の破裂を写すより写真屋の行列を写した方が余程面白かんべい」との文を添え、現地に押し掛ける写真屋の姿を皮肉っている[18]。
居留地の外国人が商売相手で発行所も(治外法権のある)居留地とする一方、ビゴー自身は居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置いた。仏学塾で教えていた当時は麹町区二番町(現・東京都千代田区)に住み、1887年頃から1890年までは向島(現・東京都墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住した。
その背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視に身の危険を感じ、壮士に気づかれるのも避けたいという事情もあった。
1890年には牛込区市谷仲之町(現・東京都新宿区)に再び転居する。ここは、ビゴーが来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にあった[22]。
ビゴーの取材対象は政治に限らず、1888年の磐梯山噴火や1891年の濃尾地震、1896年の三陸大津波といった災害にも、上記の外国紙通信員として取材を行っている。磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真の技術を身につけた。濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いている。これらの報道画はビゴーが本来の画業で培った写実的なものである。
この間、ビゴーはフランスのサロンに油彩画を出品し続けた[24]。しかし、若い頃に写実主義の影響を強く受けたまま祖国を離れたビゴーの画風は、印象派などの新しい流派が主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時は入選することはなかった[24]。
マスとの結婚と日清戦争従軍
1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行した。しかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなった。1893年には半年ほど京都市に滞在。これは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的であった[25]。また、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになる[19]。
1894年(明治27年)7月、34歳で士族の佐野清の三女・佐野マスと結婚した。マスは美しい切れ長の瞳を持つ美人で、ビゴーより17歳年下であった。ビゴーは日本への永住を考えていた。この頃、フランスから帰国して間もない黒田清輝と知り合った。ビゴーは日本で暮らすため、画壇の重要人物と目した黒田の知遇を得ようとした
しかし、最新の流派を学んで帰国した黒田と上記の通り古い写実主義で育ったビゴーでは絵画に対する考えに大きな違いがあり、結局二人は大喧嘩をして絶縁した[26][注釈 5]。
日清戦争
同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙『ザ・グラフィック』の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し、報道画を寄稿した。1度目は釜山・仁川・平壌と朝鮮国を北上し、10月下旬の鴨緑江作戦を取材して11月初旬に広島に戻り、約1ヶ月間、新婚の妻マスと過ごして12月には再び中国戦線に出かけ、翌年にかけて満洲を取材した[28]。これらの絵は野戦病院や雑役に従事した軍夫など、日本のメディアが関心を向けない題材が描かれていた点で貴重なものである[29]。また、従軍に際しては写真機を持参しており、約200点の写真を撮影している[28][30]。ただし、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなっていった[31]。1895年(明治28年)にはまた、長男モーリスが誕生した。
