中国 1937年 ~ 毛沢東と話せる アメリカ人 『エドガー・スノー』 | みょんじゃさんのブログ

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上海ビジネスフォーラム異業種交流会 参考

 

抗日運動時代の中国に飛び込んだスノー

 

  

 

アメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品『中国の赤い星』により著名である。

 

 

 

1905年生まれ

ミズーリ大学コロンビア校でジャーナリズムを専攻

学ぶが学費負担に苦痛を感じ1年で退学

 

23歳

1928年から周遊記を書くための世界一周の旅に出かけた。同年夏に上海に上陸し、以後13年間中華民国に滞在。

現地でチャイナ・ウィークリー・レビューに就職し、同紙はミズーリ大学ジャーナリズム学院卒業生の J.B. パウエルが創刊した。

宋慶齢と友人になり、蔣介石ら国民党幹部らについて記事を書き、彼らの活動を支えた。

蔣介石の周辺にはF・ルーズベルトの周辺にいるよりも多くのハーバード大卒業生が顧問となっていた。

埃德加·斯诺生平| Edgar Snow Memorial Foundation 

国民党時代の毛沢東に会っている

 

1928年–30年の中国飢饉を見たり、のちにビルマ公路と呼ばれる道路を訪れた。

満州事変について報道し、サタデイ・イブニング・ポスト特派員となった。

 

1935年12月 十二・九学生運動  共産党に執着する国民党への不満が爆発したころ。

中国人民に対する共産党の影響力の強さを実感した。

しかし当時、共産党の紅軍は陝西省北部で数十万の国民党軍に包囲されていた。

 

こうした状況下でも、中国共産党は依然として全国的な抗日救国運動を止めなかった。
スノー夫妻はそのことに感動し、一つの抑え難い願望を持つに到った。それは紅軍を取材できないかということであった。
しかし一人の米国人記者が、どうすれば国民党軍の厳重な封鎖線を突破し、紅軍防衛区に侵入出来るのか。

共産党の指導者は、侵入してくる米国人を信用するであろうか。


1936年春、スノーは密かに上海へ戻り、宋慶齢に面会した。宋慶齢は彼を失望させなかった。

スノーは自分の撮影機や写真機、生活必需品、更に毎日欠かせない珈琲や煙草などを持参して出発した。
スノーの一行には一人の信頼できる伴侶がいた。

レバノン系米国人医学博士、ハテム(George Hatem、巻末の注記を参照)である。

彼は1933年上海に来て以来、中国共産党へ溢れるばかりの同情心と希望を抱いていた。

当時中央紅軍は、高い技能を持つ西洋医学の医者を招聘し、陝西省北部で働いてもらうことを願っていた。

宋慶齢がハテムを探し出すと、彼は喜んで同意し、ハテムとスノーは共に西安を目指すこととなった・・・

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周恩来はスノーに言った。「貴方が信頼のできる新聞記者で、中国人民に友好的だとの報告書を受けている。貴方を信頼しているので、有りのままを報道してもらっていい。それだけで十分なのだ。」

周恩来夫妻と

 

 

周恩来はスノーとハテムのために詳細な訪問計画を立てた。それによれば、全部で92日が必要となり、スノーの当初の滞在予定を遥かに超えていた。スノーは当時、革命根拠地にそれ程多くの見るべきものがあるとは思っていなかった。しかし実際スノーは、革命根拠地・延安での考察に丸々4ヶ月を要したのだ。

 

スノーは毛沢東本人に対する畏敬の念が湧き上がるのを感じた。

 

スノーは、国民党政府の政治的、軍事的封鎖を突破して中国共産党中央と紅軍所在地に到達し、毛沢東を取材した歴史上初めて外国人記者となった。

 

10月末、スノーの4ヶ月に渡る共産中国訪問は終了した。彼は早速北京へ帰り報道の準備に入った。

毛沢東曰く、「スノーは国共統一戦線構築に必要な相互の友好関係に道を開いた第一人者だ。我々はその事をけして忘れてはならない。」

 

32歳

1937年にロンドンで『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。

 

これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。スノーは毛沢東は政治的改革者であり、1920年代のように軍事的また革命的ではなくなっていると報じた

 

“スノーは誰もここに来ることを望まない時に一人でここに来て、直ちに情況を把握した。その目で見た事実を報道することで、我々を支援したのだ。スノーが中国に対して行なったことは偉大なことで、彼こそ国共統一戦線構築に必要な友好関係を築くのに、道を開いた最初の者だ。我々はけしてこの事を忘れない。”

 

<中国の赤い星>を読んだ米国大統領・ルーズベルトは、スノーに尊敬の念を抱いて、1942年独ソ戦の前線での取材を依頼した。スノーがヴォルガ川河畔に行った時、スターリングラード攻防戦が始まった。スノーは砲火の中で、第二次世界大戦の折り返し点となった重要な戦役を、自己の目で検証するという栄誉を担ったのだ。
スノーはソ連軍陣地で、ゲオルギー・ジューコフ上級大将(注:後に元帥に昇格)と多くの普通の兵士を取材した。彼は凄惨な戦いの中でも、軍人も民衆もともに共通の敵に対して戦闘心を燃やし続け、死をも英雄的壮挙と見ていることを伝えた。

 

1944年夏、スノーはノルマンデイ上陸作戦の米軍に従って、正に解放されたばかりのパリに進攻した。この時彼はまだ40歳未満であったが、彼の新聞報道の技術は円熟期いあり、更に時局に対する分析力は深い事実認識と洞察力を伴っていた。
第二次世界大戦中、エドガー・スノーは一人の優秀な国際ジャーナリストとなり、東西の戦争の中で多くの大戦を検証し、彼の報道は、20世紀の歴史的な貴重な記録となった。

 

45歳

1950年代にマッカーシズムにより反共主義が台頭し、スノーも容共主義者の疑いで、FBI当局に共産党との関係を尋問された。

ロイスの女優業が挫折したこともありアメリカを出国。

1959年よりスイスに移住したが、国籍はアメリカ合衆国のままだった。

55歳
1960年に戦後初の訪中で毛沢東、周恩来と会談した。その時の著書『今日の赤い中国 (Red China Today) 』で、大躍進政策による大飢饉を否定するなど、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批判された。

1963年刊の『中国:もう一つの世界(The Other Side of the River)』でも、大躍進政策が実際には大飢饉に至ったことを否定している。後にスノー自身は自らの無知を認めている。

その後1964年から1965年にも再々訪中したが、そのとき毛沢東は「ベトナム戦争へのアメリカ介入が国内の団結に役立っている」と評価し、中国大陸における中国共産党による赤化革命成功には「(彼らの敵であった)蔣介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。

 

65歳

1970年から1971年に妻ロイスと共に最後の訪中を行い、リチャード・ニクソン大統領は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、招待メッセージを述べている。

ホワイトハウスも訪中に興味を示したが、スノーを信頼してなかった。

毛沢東と直接話せるジャーナリスト

 

毛沢東「ニクソンの訪中を歓迎する」と伝言。

 

1972年2月15日  ジュネーヴで癌が悪化し亡くなった。

エドガー・スノー - ナムウィキ

その5日後、2月20日ニクソン大統領と毛沢東

中国訪問を見届けられなかった。

 

その9か月後‥‥

1972年10月日中国交正常化