谷森善臣 1818-1911 幕末-明治時代の国学者。 文化14年12月28日生まれ。
伴信友の門下で国学を学ぶ。1858年頃の40歳頃から山陵修復事業に携わり、以後御陵墓取調事務に従事した。
1858年 山陵修補御用掛嘱託となり、陵墓の修築に加えてその考証・比定作業にも従事。
1863年 国学者たちから大政委任論が確認された
『大政委任論』江戸幕府が国内支配の正当性を保つために掲げた政治理論。
将軍は朝廷(天皇)から実質的な国政(大政)を委任されており、朝廷の意向を反映して統治していると主張するもの。
京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。
天皇と将軍の相互関係を前提としていたため、幕末の尊王攘夷運動によって「天皇自身が統治すべき」という主張(王政復古)が強まると、幕府自らの首を絞める結果に・・・
谷森善臣『帝皇略譜』嘉永4年
明治元年(1868年)2月、神祇事務局判事となるが、間もなく制度事務局権判事へ改任。
明治2年(1869年)4月、昌平学校へ出仕して皇学館一等教授となり、5月より国史考閲御用掛・教導局御用掛を兼ね、
7月に大学中博士に任じられる。
明治3年(1870年)、正七位に叙された後、
同4年(1871年)4月に御系図取調御用掛、
明治8年(1875年()4月に修史局修撰となったが、この頃よりしばらく新政府組織とは距離を置き、南朝史・国語学分野へ研究対象を広げて著作活動に専念している。
陵墓研究に対する多大な功績が認められ、
1893年(明治26年)10月に従五位、さらに1897年(明治30年)4月に従四位へ特進。
1898年(明治31年)1月に御陵墓取調事務嘱託、
1904年(明治37年)5月に帝国年表調査委員となり、皇室系譜の調査や歴代天皇の確定に寄与する。
1906年(明治39年)5月、特旨をもって正四位に叙され、晩年まで精力的に活動した。
1911年(明治44年)11月16日卒去、享年95。
墓所は雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)にある。
主な著作としては、上で挙げたものの他、『帝皇略譜』・『南山小譜』・『藺笠のしづく』・『神武天皇御陵考』・『柏原山陵考』・『新葉集歌人履歴』・『声韻図考』・『五十音図纂』・『語鑑言語経緯』・『嵯峨野の露』・『大塔宮護良親王二王子小伝』など、枚挙にいとまがない。しかし、それらを収める草稿類『谷森靖斎藁草』・『谷森靖斎翁雑稿』・『谷森靖斎史論雑纂』などが全て谷森家にあり、1932年(昭和7年)次男・健男により宮内省図書寮へ献納された経緯からか、現在までに公刊されたものはわずかで、そのため善臣の学問的業績は学界でもあまり知られていないという事情にある。ただ、善臣の蒐集・校訂した典籍類は「谷森本」として『国史大系』の底本に利用されており、その卓抜な考証がわが国の歴史学に与えた影響は極めて大きい。

