2025.12.15撮影
527年(継体天皇21年)6月3日、大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の筑紫国造磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命され、天皇から筑紫以西の統治を委任された。
528年11月11日、磐井軍と大将軍の麁鹿火率いる大和朝廷軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされている。
同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、大和朝廷(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
↑こちらの本を参考に載せています。
この御世、竺紫君石井(筑紫君磐井)、天皇の命に従はず、無礼多し。故に、物部荒甲(物部麁鹿火)之大連、大伴金村連の二人を遣して、石井を殺しき。
(この御世に、竺紫君石井が天皇の命に従わず、無礼が多くあった。そこで物部荒甲之大連と大伴金村連の二人を遣して、石井を殺した。)
『筑後国風土記』逸文による、磐井の乱の経緯
雄大迹天皇の世にあたりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に従はず。 生けりし時、預めこの墓を造る。 にわかにして官軍動発りて、襲たむとする間に、勢いの勝たざるを知りて、独り豊前国上膳県に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終はりき。 是に於いて官軍、追ひ尋ぎて跡を失ふ。士の怒り止まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕とす。
(雄大迹天皇(継体天皇)の御世に当たって、筑紫君磐井が豪強暴虐にして、天皇に従わなかった。 生前のうちに、あらかじめこの墓を造った。 急に官軍が動員され襲撃した時に、勢いを見て勝てないことを悟って、独りで豊前国上膳県に隠れて、南山の険しい嶺の隅で亡くなった。 ここにおいて官軍は、磐井を見失った。 兵士の怒りは止まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落とした。)
朝鮮半島側の磐井の乱に関する記事
「三国史記」「三国遺事」といった朝鮮半島側の資料には、磐井の乱の記事は全く存在せず、新羅が磐井に賄賂を送ったとする証拠は見当たらない。
継体王権の威信財と政治的連携 六世紀前葉を中心に、 列島各地の有力古墳から広帯二山式冠と捩り環頭大刀とよぶ威信財が出土し、 継体大王の政治動向を探る見解が提示これている。
高松雅文さんによれば、 広帯二山式冠は列島各地の二七基の古墳、 捩り環頭大刀は五四基の 古墳から出土し、 その時期は五世紀末葉~六世紀末葉と長期に及ぶが、 とくに六世紀前葉の古墳に集中するという。
これらの製品は王権直属工房で製作され、 その配布は「継体大王と古墳の被葬者おける結びつきの結果を反映している」と推測している。
蝶形金具形は広帯二山式冠の、 勾金形は捩り環頭大刀の一部を象徴化した石製品であることは、 磐井と継体大王 との信頼関係の証として、 ひときわ巨大に製作されたのではないかという意見もある。
磐井と継体王権と九州中·北部勢力
これまで述べてきたように、 畿内周辺に輸送された馬 門ピンク石製石棺や、 横穴式石室に石屋形をとり入れた 越前·近江の古墳は、 継体墓のほか、 継体親族、 継体妃 出身勢力、 継体擁立派勢力の首長墓クラスにほぼ限定されている
継体王権を象徴する威信財を出土する古墳が九州北部に広がっている。
西日本各 地に点在する北部九州型横穴式石至に関連する古墳からも、 広帯二山式冠や捩り環頭大刀が出土。
(大阪府芝山古墳、 福井県十善ノ森古墳、 三重県井田川茶臼山古墳、 愛媛県東宮山古墳 (現·妻鳥陵墓参考地) など
東宮山古墳を除くといずれも前方後円墳で、 九州北部勢 力との関係を介して継体土権と連携し、 対外交渉に関連しただろうとされる。
この段階に岩戸山古墳が磐井の寿陵して築造された510年代半ばだろうか?
『日本書紀』 継体21年6月条にみえる磐井の言挙げの内容は、 磐井が若き日に王宮に出仕し たことを物語る。
即位前後の継体と人格的信頼関係を結んだのではないか
磐井は、 こうした 王権との密接な関係を背景に有明海沿岸域首長層の再結集と九州北部諸勢力との連携をはかり 王権による対外交渉の九州側代表者としての地位を獲得したのではないか。
水谷千秋さんは「彼ら (磐井をトップとする九州諸勢力)は継体の敵だったのか味方だった のか」 と問うた。
わたしは「味方」だと思う。 その磐井がなぜ王権に叛旗をひるがしたのか。
朝鮮半島情勢が大きくかかわっている。
朝鮮半島情勢の変動と倭王権 これまでの「磐井の乱」研究のなかで、 乱の安囚ののひっつとして倭王権の朝鮮半島における 軍事活動と九州諸勢力の負担を想定する視点があった。
ここ30年ほどの韓国考古学の調査· 研究の進展目覚ましく、 6世紀を前後する頃の倭と朝鮮半島諸国·域との交渉を示す資料が著しく増加している。
5世紀後葉から6世紀前葉の倭王権の対外交渉は、 百済を軸にすすめられたようだ。
百済は475年に高句麗の攻撃によって王都の漢城(現ソウル市 と蓋鹵王を失い、 熊津 (現公州市) に遷都した。
しばらく混乱が続いたらしいが、国力増強をはかるため南部の栄山江流域を領有化し、さらに蟾津江東域の大加耶圏の西部に進出する。
倭王権でいえば雄略大王から継体大王の時期にあたるが、 『日本書紀』 の雄略大王晩年の記事と継体紀には王権による積極的 な百済支援の交渉記事がみられる。
ちょうどその時期、 朝鮮半島南西部の宋山江流域と慶尚南道 (慶南地方) の南部に、 九州系横穴式石至を構築した円墳や方墳、 前方後円墳が築造された。
日本列島に起源をもこれらの墓制を倭系墳で、 磐井と継体大王の信頼関係を想定し、 磐井は王権対外交渉の九州側代表として積 極的に関与したと想定した。
朝鮮半島に出現した倭系古墳の大半は「磐井の乱」後に築造を終 えている。
筆者は、これらの倭系古墳の築造動向に、 「磐井の乱」 の要因のひとつがある のではないかと思えてならないと言っている。
栄山江流域と慶南地方の倭系古墳 1980年代半ば以降、 日本列島固有の墳形と考えられてきた前方後円墳 (韓国では長鼓墳 とよぶこともある) が朝鮮半島で相次いで発見され話題となった 。
私撮影
現在、15基が 知られており、 そのうちの11基が発掘調査され、 具体的内容が判明つつある。
前方後円墳が分布する地域は、 朝鮮半島南西部の全羅南道·北道で、 南から海南半島、 栄山 江流域、 咸平湾沿岸域、 盧嶺山脈を越えた黄海沿岸域 (霊光·高敞) に点在するが、 その中 心域は栄山江流域周辺にある。
これらの前方後円墳は在地首長墓群からはなれて一基単独に築 造されるのが一般的である (例外として月桂洞古墳群、 七岩里古墳群、 馬山里古墳群がある)。 栄山江流域と慶南地方に分布する九州系横穴式石室を採用した古墳には、 墳丘が倭系のものが多くみられる。
2023.5.27 撮影

































