頭がこんがらがったので整理中~~
宋の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420年 - 479年)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。
梁の正史『梁書』(619年)、南朝4代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。
『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする
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倭の五王の遣宋使の目的
⇒中国の先進的な文明摂取+中国皇帝の威光を借りて当時の倭(ヤマト王権)の諸豪族を抑える+国内の支配を安定させる
高句麗王は、395年に慕容宝によって「平州牧」となり「封遼東・帯方二国王」に封ぜられ、413年に東晋の安帝より「使持節 都督 営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」に封冊され、420年には宋の武帝より「征東大将軍」に、422年には「散騎常侍」を加え「督平州諸軍事」を増され、時の高句麗王の称号は「使持節 散騎常侍 都督 営平二州諸軍事 征東大将軍 高句麗王 楽浪公」ということとなった。この称号の意味するところは、高句麗王の「楽浪」地方の支配権はもとより、北燕勢力下の「営・平二州」の軍事権をも認めたもので、実力が伴うならば、この地方を征服して治下におさめてもよろしいという宋の承認を、高句麗王は得たこととなる
421年の倭の五王、讃と宋への遣使がはじまる。
宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗王・百済王もその地位を薦められたが、倭王はこの昇進にあずからず、翌年に遣使して初めて任官されており、この違いは宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭が東晋と正式な交渉を持っていなかったことを物語る、という指摘がある
430年までに「使持節 都督 倭・新羅・任那・秦韓・慕韓五国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封ぜられていたものとみられる
438年の遣使では、「珍」が「隋」ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正(承認)を求めているが、このとき「珍」が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より1階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性あり。
⇒臣下の豪族までを認めてもらっている
※倭の五王はそれぞれ、朝鮮半島情勢に対応する軍事権確保+防衛目的に冊封していた
高句麗の南下に対抗して、朝鮮半島における軍事権を確保しようとする意図があったことが指摘されている
自国の権威を高め、高句麗に対抗しようとしたもの
451年には確実に「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封冊されている。
⇒倭王は、百済を除く南朝鮮の軍事的支配権を認められていた
南朝は、百済の1字を名乗る済に対して倭本国、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の軍事的支配権を承認し、武も「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与されたが、南朝と国交のある百済だけは承認せず、武は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録
⇒『宋書』倭国伝にある、武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」とあって、大和朝廷の国土統一、朝鮮半島遠征の状況過程を伝え、百済の国名と父・済の名を出して思いを訴えている。
478年の遣宋使を最後として、倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。
『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」および「武」の遣使時期と重なり(後述)、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し、自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある
『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする