幽囚録 作者: 吉⽥松陰 文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)
江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。松下村塾で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。
文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。
天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。
天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
1839年 9歳 明倫館の兵学師範に就任。
1841年 11歳 藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
1843年 13歳 長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。
1845年 15歳 山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を修めることとなった。
松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」「神国由来」、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。
嘉永3年(1850年)9月 九州の平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわなかった。西洋兵学を導入し、民政・内治に努めるべきだと主張。
松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた。
松陰は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ。
嘉永4年(1851年)交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵とともに、山鹿素水にも学んでいる。
嘉永5年(1852年)宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。
この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学。
秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ」と驚いている。
江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。
このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を見せ度きものなり」と記す。
8月 藩主に対し意見書「将及私言」を提出。諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処すべきことを説いた。このとき松陰は士籍剥奪の処分を受け、浪人の身であったので、この行為は明らかに逸脱行為であり、それゆえ後に彼はこの意見書提出を「二十一回」の「用猛」の一つに数えている。その後、師・象山の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせず。
嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した時に、金子重之輔と2人でペリー艦隊の艦船が停泊している伊豆国下田へ赴き、当地の海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。
3月27日渡航は拒否されて小舟も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された(下田渡海事件)。
幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった(9月18日)。
長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。ここで富永有隣、高須久子と知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。
この獄中で密 航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。 特徴的な部分はここだ。
★⽇不升則昃⽉不盈則虧國不隆則替故善保國者不徒無 失其所有⼜有増其所無今
急修武備艦略具礮略⾜則宜開墾蝦夷封建諸侯乘間奪 加摸察加隩都加諭琉球朝
覲會同⽐内諸侯責朝鮮納質奉貢如古盛時北割滿洲之 地南收台灣呂宋諸島漸⽰
進取之勢然後愛⺠養⼠愼守邊圉則可謂善保國矣不然
坐于群夷爭聚之中無能擧
⾜搖⼿⽽國不替者其幾與
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し[17]、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。
そして、欧米に失った国力を朝鮮や満州の土地で補うべきだと主張しました。。。
安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。
安政3年8月22日(1856年9月20日)、禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始した。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった(山縣有朋、桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。弟子の長所を見抜き、本人に伝え育てるのが松陰の教育の特徴だった。
たとえば、伊藤博文に対して「君は将来大物政治家になるだろう」との言葉を残している。
なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。
安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。
間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。
松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。
松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになる。
安政の大獄で収監される直前(安政6年〈1859年〉4月7日)
友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。
草莽崛起
「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。
さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。
結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
安政6年(1859年) 梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、
安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。
評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。
この結果、死刑を宣告され、
安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。
1868年 明治維新を待たずに死した。
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立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)
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一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。
飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。
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吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。
王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。
文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった。
陽明学
日本では幕末から近代にかけて陽明学が重要な思想とされた。
当時の清朝では陽明学は忘れられていたが、清朝末期の動乱、とりわけ日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも注意が向けられるようになった。
明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生たちにもこの明治期の陽明学熱が伝わり、新しい中国の国づくりを考える若い思想家・運動家のなかでも陽明学が逆輸入され、読まれるようになった。
「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこのころで、松陰の著作も中国で読まれるようになる。
のちに今文公羊学を掲げる康有為は、吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したといわれる。
また、康有為の弟子の梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。
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1859年 松陰死去後の影響・・・
1868年明治元年 明治維新
廃藩置県(1871年):藩を廃止して県を設置し、中央集権化を確立。
四民平等:士農工商の身分制度を廃止。
版籍奉還:土地と領民を天皇に返上。
地租改正:土地制度と税制の近代化。
殖産興業・富国強兵:西洋技術の導入、軍隊の近代化(徴兵令)。
韓国では一般的に、朝鮮侵略論を唱え、明治政府に対朝鮮政策を進めた木戸孝允や伊藤博文らの師匠、吉田松陰は、「征韓論者」として認識されているが・・松陰の対外観・雄略論(侵略論)、松陰の思想・・・
『古事記』『日本書紀』の神功皇后伝説。
雄略論(侵略論)の征韓思想。
征韓論との関係は?
征韓論は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、
1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。
1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契を発送した。
しかし、朝鮮政府は書契の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張「征韓論」がだされた。
1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが辞職した。 この事件は明治6年政変と呼ばれるが、政変の背景に朝鮮出兵議論があり、征韓論政変ともいわれる。
日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。
幕末には対外進出の一環として朝鮮進出が唱えられ、吉田松陰は欧米列強に対抗するために「取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と、橋本左内は日本の独立保持のために「山丹・満洲之辺・朝鮮国を併せ、且亜墨利加州或は印度地内に領を持たずしては迚も望之如ならず」とそれぞれ主張した。
明治の新政が開始され、日本は朝鮮に対して対馬藩を介して新政府発足の通告と国交を望む親書を送付したが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否され新政府の対朝鮮外交は最初から行き詰った(書契問題)。
明治元年12月に木戸孝允は「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残しており、木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうと記している
日本政府は朝鮮を一旦棚上げにして、並行して交渉させていた日清関係のほうを先行させ、明治3年6月29日
(1870年7月27日)に外務権大丞柳原前光(公家出身)および外務権少丞花房義質(旧岡山藩士)を清国に派遣し、清国との国交樹立と通商開始の予備交渉および貿易状況の調査にあたらせることとした。
9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、
明治5年(1872年)1月には、旧対馬藩主の宗義達を外務大丞に任じたが5月には対馬と朝鮮との関係を断ち外務省の専管とし、8月には、外務大丞花房義質を釜山草梁館に派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。太政大臣の三条実美は当面陸海の兵を送り日本人居留民を保護し、使節を派遣して公理公道を朝鮮政府に説くことを提議した
三条の即時出兵の提議に対して、参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず、自ら使節になろうとし、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信、大木喬任の諸参議が賛同して一旦内定したが、正式決定は岩倉使節団の帰国を待つこととした。
しかし岩倉使節団の帰国後も、遣使問題は延引され、大久保利通と副島種臣の参議就任を待って賛否両論が闘わされた。
岩倉具視、大久保、木戸孝允らは遣使に反対し、病に倒れた太政大臣三条実美に代わって閣議を主導した太政大臣代行の岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、10月24日、閣議決定は無期延期とされた。
同日、西郷が参議と近衛都督を辞任し、翌25日、板垣、副島、後藤、江藤が下野した。
明治6年(1873年)、釜山の大日本公館駐在の外務省七等出仕である広津弘信が外務少輔である上野景範に宛てた5月31日付の報告書が契機となって、閣議で朝鮮問題が取り上げられた。
この閣議には、太政大臣の三条実美及び参議の西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、大木喬任、江藤新平、後藤象二郎が出席した。 板垣は居留民保護のために一大隊の兵を送り、その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張したが、西郷はそれに反対して、まずは責任ある全権大使を派遣して交渉すべしと主張した。
三条は使節は軍艦に搭乗し護衛兵を帯同すべきだと主張したが、西郷はそれにも反対し、烏帽子直垂の正装で非武装の使節を派遣することを主張]。
板垣も自説を撤回して西郷の提案に賛成し、後藤象二郎、江藤新平らも賛成し、西郷は自らその使節に当りたいと提議したが、この日は決定には至らなかった。
その後、清国に出張していた外務卿の副島種臣が帰国すると、西郷は板垣に宛てた書簡で使節就任への強い思いを伝え、三条にも閣議開催を要求した。
8月上旬には、西郷と同じく朝鮮使節に志願していた副島を訪問して自身の使節就任実現へ向けた協力を求め、その同意を得た。
8月17日、閣議において西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることも決まり、明治天皇の裁可を得た。
しかし、西郷の使節派遣は西郷自身も失敗を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければならないものだったため、遣欧使節団の岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、三条や参議大木らもその意見に同調するようになった[38]。
10月14日、朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、大久保や岩倉と対立した。この日は決定には至らず、
10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、参議を引き取らせた上で三条・岩倉の間で協議が行われた。
西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した。
しかしこれに反発した岩倉は三条に対し辞意を表明、大久保と木戸は辞表を提出し、まともに閣議が開催できる状況には無くなった。収拾に窮した三条は病に倒れ。
10月19日、明治天皇の行幸啓を受け岩倉が太政大臣代理となり、
10月23日に三条の裁断による即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した。
10月24日に天皇は遣使を延期するという裁断を行った。岩倉の採ったこの上奏は宸断を求める異例のものであり、上奏の前日10月22日に西郷ら5名の参議は岩倉の私邸を訪問して彼と激論を戦わせていた。
岩倉の計画では「三条の決する所(10月15日決定、征韓)」と「岩倉の決する所(遣使延期論)」の両方を上奏し、天皇に選択させようとするものであり、これは異例の方法であり閣議の意見対立が露呈する事であり、天皇が一方を選択する事は反対派の立場を失わせることであって、政変が不可避であった。
岩倉と大久保がこの方法の採用を確定した10月21日には政変後の新組織についても相談がなされていた。この情報を察知した征韓派は閣議が正式に開かれないため岩倉邸に乗り込んだのであり、岩倉も彼らの訪問を拒絶しなかった。
この場で江藤は、岩倉は三条の代理(太政大臣代理)であり三条の意思と異なる行為をなすべきではない点、また政策の是非を三職で決せず責任を天皇に帰属させようとする行為は不臣ではないか、との一種の天皇機関説的主張を展開した。
結果として政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった。
明治政府はこの政変で西郷らを退けたが全ての征韓派が下野した訳ではなく、また西郷遣使は「中止」されたものの公式には内外情勢を理由とした「延期」と発表されたために後日に征韓論が再燃する可能性を残した。
西郷隆盛は征韓論に敗れると参議を辞し、1873年(明治6年)10月に鹿児島へ帰郷した
薩軍は熊本城長囲と小倉急襲に部隊を分け、急襲部隊は熊本平野から小倉に通じる主要な3街道(北方から反時計まわりに参勤交代路である豊前街道、三池往還、吉次往還)に別れて進軍したが、新政府側も小倉から乃木希典少佐が率いる第14連隊が先遣隊として派遣されており、2月22日には熊本城を包囲する西郷軍と一部が衝突した
明治7年(1874年) 宮古島島民遭難事件を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵を行った(木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した)。
明治8年(1875年) 朝鮮国に軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。
※江華島事件 1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。
明治7年(1874年)は 佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動が起こった。
1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして西南戦争が起こった(士族による武力反乱)明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。西南の役(せいなんのえき)または丁丑の役(ていちゅうのえき)ともいう。
1877年(明治10年)9月 官軍に鎮圧され 西郷が自決して終結した。
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まとめ
つまり、吉田松陰の 幽囚録 は陰謀ではなく、不平等条約から、国を守ろうと国力増進のために周辺国を飲み込もうとした説
古事記、日本書記の引用。
その思想は次第に「外国を討つ」という攻撃的な側面を強め、戦中にはアジア侵略を正当化するアジテーター(扇動家)的な側面が強調されました。
松陰は「公に尽くすことが武士の道」という信念を持ち、私欲を捨てて国家に貢献することを教えました。
「尊王攘夷」思想と「草莽崛起」、そして「死身の覚悟」といった極端な精神性が、国家のために命を捨てる「滅私奉公」の論理と合致し、戦争目的の正当化や兵士の教化に利用された
松陰自身が幕府に処刑された(野山獄〜江戸へ移送)こともあり、死を恐れずに大義(天皇への忠誠)のために命を捧げる態度が称賛され、教育現場で「死ぬことが誉れ」とする教育の根拠となりました。
松陰は本来、自身の頭で考え行動する「志」を重んじる教育者(松下村塾)であり、その本質は「人間としての生き方」を教えるものでした。しかし、戦中はそうした個人的な「志」の側面よりも、国家への従属を求める文脈だけが抽出・強調された経緯があります。
結果として、吉田松陰は「明治維新の精神的支柱」という高潔な側面と、「戦争への道を扇動した」という側面の二面性を持つことになりました。
吉田松陰像が明治維新に作られてしまって今に至っていることを知らなければならない。
彼の真相を知ることは全体像を知ることから始まるのだと思った。
2000年、大学一年の時のメモ。





