高麗時代 第31代 恭愍王 ~ 1358年 辛旽 ~ | みょんじゃさんのブログ

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改革政策を導いた人は僧侶

 

恭愍王がシンドンに初めて会ったのは1358年のことでした。

 

 

恭愍王はある臣下の紹介で、(玉泉寺址)の遍照という僧に会いました。

僧を見た恭感王はぴっくりしました。数日前、夢の中でみたまさにその僧であったからでした。
どうしたことか、若者が寝殿に入ってきて、恭愍王の首に剣を突き刺そうとした夢でした。

恭愍王は悲鳴も出せず、後ずさりしました。
その時、一人の僧が飛んで入り、若者を追い出しました。

まさしくその僧が今、恭愍王の前にひざまずいているのです。

恭憋王は二言、三言しか言葉を交わさなかったのに、遍照に心ひかれました。
「今日から王宮に住まうことにして、獣を助けてくだされ」
魯国姫の死によって、気がおちつかなくなった恭愍王は、遍照をみるとたちまち、心を奪われた。
竿渉から抜け出た後、恭愍王は自ら朕とようになりました。遍照は徐々に王の心をつ
みました。恭愍王は遍照に、金真平侯という貴の名前を使うようにしました。しばらくたってか
は、また「領都僉議府事」という高い官位を与え!。遍照は、今や高麗朝廷の最も高い地位につき権勢を振るうようになりました。「殿卡のために命を捧げます」

 

遍照はもともと玉泉寺に勤めていた従僕の息子で、姓は辛でした。
しだいに権勢を握るようになると、遍照は自ら名前を吨と呼ぶようになりました。そして、恭憋王は国事をすべて辛純に任せるようになりました。
権勢にとりつこうとする人たちは、我先に辛純のところにやってきて、へつらった。
辛純は、初めは正しく国を治めました。しかし、日がたつにんだんと悪だくみをはじめました。辛純は王宮の後ろの松林
とな家を建てました。家の中にお釈迦様を安置し、毎日のよう!
#み、さらにありとあらゆる悪事を働きました。
うした行動を見かねた崔瑩、李成桂らは、国王に事実をまま伝えました。ところが、彼らはかえって官位を解かれ、遠い国
方に追放されました。朝廷では、辛純にへつらって肩で風をたちが日毎に増えました。大臣たちは競ってさらに高い官
こうと、辛純に多くの賄賂を持参するようになりましッハハ、私にそんな高い地位を与えてくれるとは、本当
のご恩をどのようにお返ししていいかわかりませ
「どうか、今度は私にも少し⋯⋯⋯⋯⋯」
辛球は彼らの言葉を聞きながら、彼らがもってきた金根宝石を貪欲に眺めました。

辛盹を自分に近づけてから恭愍王は心が安らかで辛純がすることは何ごともすべて、正しいと思いました。

辛吨の悪事を見かねて臣下が国王に報告をすると、王はかえってその臣下を官職から追放しました。
今や、誰も辛吨のやっていることに口出ししなくなりました。しかし、開京に住んでいる両班(貴族)たちは、辛吨の行動をとんでもないと考えていました。辛純はこのような両班の勢力がいつも気にかかざいました。彼らが一度に手を結んで立ち上がりでもすれば、の心がいつ変わるやもしれないと思ったからです。


幸続は一つのたくらみを考え、独りにこりとほくそ笑みました。その頃、権力のある者たちは人々の財産や土地を奪い、多くの税金まで独り占めにしました。また、税金を出すことができない人を、自分の家の下僕にしたりしました。
辛純はそうした権勢家たちの財産を奪って、もとの持ち主に返させ、また、奴婢たちにも自由を与えようと考えたのです。彼のこの考えは正しいことでした。しかし辛吨は、そうすることによって人々の心を自分のほうへ引き寄せようとしたのです。辛吨は、「田民辨整都監」という官庁を設け、自らその長官となりました。そうして全国の両班、金持ち、権勢家に命令を下しました。
「人々から奪った財産をすべて返し、また下僕として使っている者のうち、良民だった者は解き放つこと。万一、これを破る者は、厳しい罰を受けるであろう!」
富豪や権勢家たちは、辛吨に不満を持つようになりました。しかし、くびきから解かれた多くの人々は、うれしくて踊りに興じるほどでした。
「天が聖人を下された!」
「そうだとも、そうだとも!」
田民解整都監は、素乱した土地と奴牌の制度を立て直すために設置した官庁である。それまで
多くの王がこれと同じものを設置して、改革を試みたが、このときが最も大きな成果を収めた。

 

 恭愍王は仏教に大きな関心を持っており、神敦を高く評価し、助言を得ました。 

「学問が深く考えが大きい僧侶だな!」と考えた恭愍王は、シンドンを宮殿に呼び入れ、改革政策を展開させました。 

「私が僧侶に政策を任せたのは、朝廷の大臣たちが皆学者だからです」「彼らを牽制し、改革をうまく展開しろということですね?" 恭愍王は辛돈に大きな官職を与え、重要な国事をすべて決定できる権力を与えました。

 

く使いものにならない国王より、いっそこの私が王になったほうが辛吨はついに、とんでもない野12:00천원(23689ました.
かたむ

そして、人々の心がすべて自分のほうへ傾いていると身勝手な考えをしました。

その上、平素彼にへつらった者たちが、後で彼をあおりました。
<ウム、そのためにはまず都を移さねばならない。
開京には私を嫌う両班が多すぎる>
辛吨は国王に、都を移そうとそそのかしました。
ところが、辛純の言うことなら何でも聞いた恭愍王だったが、この時だけは違いました。
辛吨には般若という女がいました。般若は魯国姫に似たとても美しい女性でした。

辛吨は般若を使って王の心をつかもうとしました。

魯国姫を忘れられずにいた恭愍王は、般若を見るや、彼女が心から好きになりました。

それから10か月後、般若は男の子を生みました。名前を、モニノと名付けました。

恭愍王は、モニノをすぐ王宮に入れ、世子(太子)にしようとしました。

しかし、太后がびっくりして反対しました。
「どこの馬の骨とも知れない申しい階級の女から生れた子供を、どうして世子になさろうとするのですか!」
この時、右副承旨の李仁任によって辛純の計略がことごとくあばかれました。

ついに、辛吨は権勢をつかんで6年目に、首をはねられました。
権勢に目がくらんだ辛盹は 王座を狙ったが、もうこれまでだった。

とんでもない夢をみた辛盹は、結局命を失った。

 

 

高麗末期の僧侶であり、恭愍王の信任を得て権力を握り、権門勢族を抑制するための急進的な改革を推進した人物である。特に「田民辨整都監」の設置や「農奴解放」により、土地と奴婢を元に戻す政策を実施した。改革の副作用や保守派の反発により最終的に失脚し、処刑された。