宋代(宋代)。 縦67センチ。 横52.8センチ。中国歴史博物館所蔵。
唐の玄宗(唐玄)撃毬図(擊球図)。 唐明皇格丘図(唐 明皇擊球 図)ともいう。
臣下たちを引き連れ、 普賢院での宴へと向かっていた毅宗は、 五門でしばらく行列をとめるように言いつけた。
「しばらくぶりに武臣たちの五兵手博戯を見物したい」
五兵手博戯とは跆拳道と似格闘技である。
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毅宗はスポーツマニアだ。
ポロ競技に夢中になって暴れ回り、毎日のように激球をした。
夜を明かした。 宮城の四方に格具場を作った。 これは大幹部の反発を招いた。
君主が旧中心処を蹴って大衆の前に立つ時、これを最も恐れた者がいる。
大衆の前に立つ君主は大衆と直接取引をする。
彼らの拍手喝采は官僚にとって脅威だった。
○ 夏の4月に外帝釈院に行った。 これから寺院に行って論事を成し遂げることはできない。
○ 5月に···霊通寺で後嗣を授けることを祈り、『華厳経』を50日間講じた。
○ 大幹が牛を乗せて行ったことに王が答えず、大幹が家に帰ると、王がこれに二度と撃毬しない意思で球場(毬、撃毬する運動場)を御史台に下ろした。
御史台から詔書を奉じて寿昌宮(壽昌宮)の北門を閉ざし、軍の召使たちの出入りを禁じた。
王が北原に出て遊び、左右の人に言うには、「私のボール[毬]打つ技術を再び試すことはできないだろう」と、しばらくしてボールを打つと、これに従う者がいなかった。
(9月)○西楼(西樓)に身を寄せて撃毬(擊毬)を観覧した。
○ 冬の10月1日、乙未に王が西楼で撃毬を観覧したが、雷城とともに雹が降った。
太師が申し上げるには、「陽が弱く陰気が逆になるため、雷が音を発するのですから、必ず隠れた陰謀があるのです。 もし強布した者を退け、老弱者を支え、賢良(良)の者を登用すれば救えるのです。」と述べた。
○ 書楼に出て何と4日間も撃毬を観覧した
○ 自ら老人と孝子·孫·節婦·義夫たちを撃毬場に呼んで食べ物を食べさせ、男やもめ·未亡人·孤児·無依託者と重い病気の患者に物品を下ろした。
(11月)○王が北原で撃毬した。 (貞妙元年〈1147〉、宋紹興17年·金皇統7年)
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武臣たちの五兵に手博戯が始まりました。
文臣の韓頼が五兵手博戯をしていて倒れた李紹膺の顔を殴ると、鄭仲夫が駆けつけ韓頼の胸ぐらをつかんだ。
この時、50歳になる大将軍李紹膺が前にでた。。
<もうこれ以上、文臣どもから恥をかかされるわけにはいかない>
鄭仲夫は部下の李高と李義方を呼び、密かに指示出した。
「軍隊を率いてまず、普賢院に向かえ! 行列が到着したら文臣たちを皆殺しにするのだ!」
