高麗時代 第27代 忠粛王 | みょんじゃさんのブログ

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 忠粛王1294~1339高麗第27代王(在位1313~1330、1332~1339)。 

姓は王、名は燾。小字は宜孝。第26代王忠宣王の次男で、母は也速真。蒙古名は「阿剌忒訥失里」。諡号は忠粛懿孝大王。 

モンゴル名はアラトナシリ。 字は義孝(宜孝)。 忠宣王の次男で、母はモンゴル人の義妃(懿妃:モンゴル名は也速眞)である。 碑は元の霊王エセンテムルの娘、福国長公主、元威王の阿木家の娘、曺国長公主、華華公主、南陽府院君の娘、明徳太后の4人である。

 母親はモンゴル出身の義妃(懿妃)。 妃は元の霊王の娘、福国公主、洪奎の娘、明徳太后など1299年(忠烈王25)江陵郡(陵君)。

 1313年に王位を受け継いで帰ってきて即位した。忠宣王の次男。

 即位後、政治を疎かにして混乱が起きると、この機会に乗じて瀋陽王の故(暠)が王位簒奪を図り、元に誣告、21年に燕京に入り帰れず5年間滞在した。

 25年に帰国し、翌年に瀋陽の王に宣位する計画を立てたが、忠臣たちの反対で取り消した。

 しかし、忠恵王が皇陰武道の理由で元によって廃位されると、32年に復位(復位)、その後元の無理な細工(歳貢)を削減させ、公女(貢女)·患者(宦者)の選抜などを中止するよう請願した事実などの業績を立てたが、依然として連絡(宴楽)と狩りに没頭し、政事を顧みなかった。 陵は義陵(毅陵;開城)だ。

 

 

1294年(忠烈王20)生まれ

1299年(忠烈王25)に江陵郡に封じられ、後に江陵大君に封じられた。 

世子が後を継ぎ、27代の忠粛王、20歳で王位に就いた。(1313年~1330年と1332年~1339年に在位)

 

1308年(忠烈王34)忠宣王に従って元に行った。

1313年(忠宣王5)に王位を譲り受けて帰ってきて燕京宮(延慶宮)で即位した。 

しかし、忠宣王は忠粛王に王位を譲った後も、元にいながら旨を伝え高麗の国政を管理したので、忠粛王が王権を行使するには限界があった。

さらに、忠宣王は忠粛王に譲位下奏5つであり、甥である王暠を世子に冊封し、元に呼び、禿魯、トルカクとして滞在させた

 

1316年には自らの瀋王位を王高に譲った。

王暠はその後、忠宣王妃の継国大長公主の甥であるヌルン(訥倫)公主と結婚した。

王暠の婚姻以後、忠粛王もまた福国長公主と婚姻した。

元の帝王位を保有し皇室釜馬でもある高麗宗室の存在は忠粛王に負担として作用した。

 

 

1318年(忠粛王5)5月、これまで弊害の多かった事心官を廃止する一方、諸廃司牧所を設置したが、これを察理辨違都監に改め、権勢が脱店した田民を探し出し、それを元の主人に返すようにした。 権勢家たちがこれを不満に思って忠宣王に訴え、忠宣王の介入により察理辨違都監が廃止された。

その後忠宣王が失脚した後の1321年(忠粛王8)に再び設置されたことから、察理辨違都監の改革が対象とした権勢家には忠宣王を支持した勢力が多数含まれていたものと考えられる。

 

1320年(忠粛王7)忠宣王が失脚した後、政治勢力の改革を図ったが、忠宣王支持勢力が起こした心王擁立運動および入城論などにより長期間院に抑留された。

 

1320年(忠粛王7)、元で仁宗が死去し、永宗が即位する政局の変動の中で忠宣王が失脚し、吐蕃に配流されると、翌年に忠粛王は忠宣王の側近の臣僚として高麗の人事および財政などを左右した権能(權)·蔡洪哲(蔡洪哲)らを収監し、国文下6号を送った。

忠宣王の影響から脱し、自ら国政を管理するための最初の措置だったと言える。 

同年、忠粛王は元の朝廷に入るよう命じられて入朝したが、そのまま抑留され、永宗が死亡し、太定帝(泰)が即位する政局変動の中で、1324年(忠粛王11)になってから帰国することができた。 

これは忠宣王が失脚し、忠粛王がその側近勢力を粛清していく中で、忠粛王からの処罰を避けようとした政治勢力が元の朝廷に忠粛王を誣告し、沈王王高を高麗国王に立てようとする中で起きたことだった。

1321年に始まったいわゆる「心王擁立運動」は忠宣王の側近勢力が主導し、他の高麗の臣僚も大挙同調する中で進行されたが実現しなかった。 これに対し、深王擁立運動を推進した勢力の一部は、その延長線上で高麗国号をなくし、征東行省を原ないしは惑星と同じ形にすること、すなわち入城を原調整に要請したりもした。

 

1325年(忠粛王12)、忠粛王は再び改革教書を頒布し、当時の国政と関連した膨大な改革案を提示し、心王擁立運動と入城論などで混乱した政局を収拾しようとした。 

しかし、その後も沈王側の誣告により元使臣の調査を受けることになる状況などが相次いで発生する中で、改革が持続することに限界があった。 

このような中、忠粛王が政治を一部の側近臣僚に一任すると、側近臣僚の中にも当時院でケシク生活をしながら院の実権者エルテムル(燕帖木兒)の信任を受けていた世子を王位に就かせようとする勢力が台頭した。 

これに対し忠粛王は1329年(忠粛王16)10月、世子に王位を譲るよう院に要請し、1330年(忠粛王17)2月に王位から退いた。 

即位後、忠粛王の側近勢力を政界から追い出し、忠粛王支持勢力と対立した忠恵王が1332年(忠粛王復位1)元の政局状況と関連して廃位されると、忠粛王が再び王位に就いた。 

 

 1330年(忠粛王17)、忠恵王に王位を譲り、1332年(忠粛王復位1)に復位した。

復位後は政事にあまり気を使わなかったが、1339年(忠粛王·復位8年)に死去した。

 

忠粛王も元の干渉のために、思うように国を治めることができなかった。