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日本の美意識[アンコール特集]

 

柳宗悦著「民藝四十年と手仕事の日本」岩波文庫

 

『雑器の美、用の美、民藝の美』

 

柳宗悦(やなぎむねよし)は美術工芸分野において、

明治、大正、昭和の3代を駆け抜けた評論家でありプロデューサーである。

そして柳宗悦の仕事を考えるとき

父親である柳楢悦(やなぎならよし)のことを書かねばならない。

目指した道は違えど、父である楢悦のDNAを

いろいろな所で引き継いでいるからだ。

楢悦は津藩の下級武士出身だが10代の末には何冊かの著書があったという。

また23歳のときに長崎の海軍伝習所の第1期生として派遣され、

西洋数学、測量学、航海学などを学び、

これが礎となって明治5年40歳のときに海軍大佐、

9年に初代の水路局長となり、大日本水産会の幹事になるのである

(大日本水産会では養殖真珠の発明家御木本幸吉と昵懇の間柄である)。

私は、ミキモトに入社して、柳楢悦のことを知った。

また平清盛、夢窓疎石、松尾芭蕉、本居宣長など

三重県は多くの文化人を排出し、

伊勢神宮は有形無形に文化の息吹を感じさせる土地でもある。

そのような土壌とは決して無縁ではない。

宗悦も年譜によれば12歳で学習院の中等科に進むと

後の白樺派の同人、志賀直哉、武者小路実篤らと親交を結び、

20歳でバーナード・リーチの陶器に惚れ込む。

21歳で白樺を創刊、25歳でウイリアム・ブレーク

(18世紀末から19世紀にかけて活躍した、英国の詩人であり画家)

の評論を刊行するという、父楢悦と同じように早熟なのである。

柳の交友関係は広く様々なヒトとの出会いが

彼を一回りも二回りも大きくさせていくのだが、

人生を決定づけたのは、

やはりバーナード・リーチとの出会いではないだろうか。

イギリスの陶芸家リーチを知るのは彼が若干20歳の時である。

リーチを知ることによって展望が大きく開けたであろう。

27歳の時の朝鮮旅行で北京にいたリーチと再会、

翌年我孫子の庭内にリーチの窯と仕事場を作るが

30歳のときリーチの窯を焼失、

31歳のときリーチと妻兼子を伴い朝鮮に行き講演会と音楽会を開く。

同じ年にリーチの帰英告別展を催す、という具合である。

リーチとの交際は生涯続き、河井寛次郎や浜田庄司らとも繋がっていく。

私の故郷宇都宮の近くに益子焼があり、

父が洋画家、日本画家そしてグラフィックデザインで生計を立てていたので

家の中には浜田庄司の作品が

何点か無造作に転がっていたのを記憶している。

民藝は質の高い生活雑器であり、

それは、20世紀初頭のバウハウスの精神に繋がっていた、

と私が感じる所以はそこにあるのだ。