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ますぶちStyle日本の美意識[アンコール特集]

天平の甍/井上靖・新潮文庫

 

 

 

 

『日本の国が形作られ、

仏教文化が日本に根をおろした天平時代

普照や栄叡らは何を悩みどう生きようとしたのか』

 

彼らは同時代の政治家吉備真備、政治僧玄[ボウ]、

中国で客死した阿倍仲麻呂など、

華々しく時代を動かした政治家や僧とは違い、

余程の歴史通でなければ知られない人たちでばかりである。

井上は彼らにスポットをあて、

仏教とは何か、宗教とは、日本人とは、生きること、学ぶこと、

更には人生の虚しさなどに言及していく。

彼らはそれぞれの運命に弄ばれながら、初期の目的から離れていく。

一番の親友栄叡は病に冒され道半ばで遷化(僧が死ぬこと)する。

「唐大和上東征伝」(鑑真の在唐時からの弟子であった思託から資料の提供を受けて淡海真人三船が撰修した)によれば、

『桂江を下ること七日、梧州に至る。次いで端州の竜興寺に至る。栄叡師奄然として遷化す。大和上哀慟非切なり。喪を送りて去る』とのみ記されている。

戒融は「この国には何かがある。この広い国を経廻っているうちに何かを見つけ出すだろう」と考えて、

出奔して托鉢僧となり中国各地をさまよう。

古い記録によれば天平宝字7[763]年鑑真が入滅した年に、

戒融という僧侶が優婆寒一人伴って唐から送渤海使船に乗って渤海を経て帰国したが、

途中暴風雨に遇い、船師が優婆寒を海に投じたということだ。

しかし日本に帰ってからの戒融のことについて歴史は何も語っていない。

玄朗は意志薄弱で唐につくなり日本へ帰りたい、

といいながら還俗して唐の女と結婚し2人の女子供を得る。

ある時、普照に妻を連れてかえりたいと相談を持ちかけるが、

結局自らその願いを断念し唐土に落ち着く。

玄朗の名は「東征伝」にも出てきており、帰朝したかどうかは定かでない。

普照らが中国に行く前から唐にいて、

一心不乱に写経に総てをかけていた業行は、

帰りの航海で自分が数十年かけた夥しい量の経文とともに海底に沈んでしまう。

「…そしてその潮の中を何十巻かの経巻が次々に沈んでいくのを普照は見た。巻物は一巻ずつ、あとからあとから身震いでもするような感じで潮の中に落下して行き、碧の藻のゆらめいている海底へと消えて行った。その短い間隔を置いて、一巻一巻海底へと沈んで行く行き方には、いつ果てるともなき無限の印象と、もう決して取り返すことのできないある確実な喪失感があった。そしてそうした海面が普照の眼に映る度にどこからともなく業行の悲痛な絶叫が聞こえた」

という箇所は何度も読み返してしまった。

日本史の中でも激動の時代であった天平時代を

名もない僧たちが苦労して持ち帰った経典はその多くが海中に没した。

そしてこれだけの事績を残した主人公の普照が、

いつ死んだのか不明なのである。

鑑真が第一回の渡航で日本にたどり着いていたら、

歴史はどのように変わっていただろうか。

時あたかも東大寺と大仏の国家的プロジェクトが進行中であり、

鑑真の残した業績はあまりにも大きい。

しかし名僧鑑真に隠れて日本の僧たちがなし得たことは一体なんであったのか。

彼等は果たして自分のおかれた人生に満足して死んでいったのだろうか。

否そうではあるまい。

結局人生は挫折して後悔するだけのものではなかったのではないか。

虚しいといえばそれまでであるが、それが人生なのである。