ますぶちStyle日本の美意識[アンコール特集]

うるしの話/松田権六・岩波文庫 

 

 

 

 

『縄文時代から私たちの身近にあった、漆の近代化に貢献し、

漆聖と呼ばれた、漆芸の天才職人』

 

幕末から明治にかけて日本の金工、蒔絵、七宝、焼物などを用いた工芸品は異常な高まりをみせる。

この要因は、武家社会の崩壊で大名というパトロンを失うという、危機的状況が今までの既成概念を打ち破ったこと。

政府主導の殖産興業政策(資本主義育成策。富国強兵を目指し軍事工業と官営工業を中心に欧米の生産技術や制度を導入し、急速な工業発展を図った)によりモノづくりの職人たちが思い切って腕を振るえた事。

万国博覧会という発表の場が新たなパトロンの発掘と日本の伝統の技をヨーロッパの多くの人に見せることができた事。

などがあげられよう。

江戸時代、長崎の出島を通じて一部がヨーロッパに流出し、中国のシノワズリと並んでジャポネズリが流行したが、その後19世紀末から20世紀にかけてジャポニズムがヨーロッパの文化芸術に多大な影響を与える。

その流行はヨーロッパで漆と云えば「japan」を指すまでになる。

漆は中国や東アジア、朝鮮半島などで産出されるがそれぞれ固有の発展を遂げてきた。

日本も縄文時代から木器や土器に加飾されている。

弥生式土器には壷の内側にまで漆を塗ったものが出土している。

法隆寺の玉虫厨子は制作年代に異論はあるものの、漆を用いた完成度の高い漆芸品としては最も古いと云われている。

また正倉院に見られる精巧な技術と格調高い器物から日本の漆芸が独特の発展をしてきたと見て良い。

漆地に末金(金粉)をちりばめたような末金鏤(初期の蒔絵)は中国風な名称であるが唐から伝来したものではなく日本で考案されたものであろう。

京都には幸阿弥派と五十嵐派という二大巨頭が室町時代からあり、代々漆を生業としてきた。

これに江戸初期本阿弥光悦が加わる。光悦の没後は江戸に出て徳川家と結びつくが、幸阿弥派は京都、五十嵐派は金沢の加賀家のもとで漆芸を発展させる。

日本における最初の漆の興隆は室町時代であり、第二は桃山から江戸初期、そして幕末から明治にかけてが第三期と見て間違いない。

明治期に日本の輸出産業の花形として多くの工芸品や産物がヨーロッパに送られ、それは同時に日本の技術のレベルアップに繋がるのだ。

うるしの神様と異名を持つ松田権六は、1896年(明治29)漆芸の中心金沢で生まれる。

彼の活躍は大正から昭和になるのだが、これほどの名人を排出したのも、明治という特別の時代が背景にあるのは云うまでもない。

権六は金沢の農家の生まれで、彼の両親は仏教徒で、兄や親戚がことごく漆芸に従事していた。

大正3年[1914]東京美術学校[現東京芸術大学]漆工科入学がかれを一躍漆の大成者に導く事になる。

美術学校では近代漆工芸の草分けとされる六角紫水の書生となり、彫刻を高村光雲に、油絵を岡田三郎助に、日本画を寺崎広業に、図案を渡辺香涯や島田佳矣に、和文様を小場恒吉に習い人脈を築いていく。

権六が普通の蒔絵師で終わらなかった背景には、時の実業家で茶人の益田鈍翁に可愛がられた事だ。

また今日の松田権六をたらしめているのは、北朝鮮平壌市郊外にある楽浪遺跡から発見された漆器の修理と調査の経験だろう。