ますぶちStyle日本の美意識[アンコール特集]

 

嵯峨野明月記/辻邦生著・中公文庫

 

 

『いかにして嵯峨本はつくられたか(1)』

 

京都嵯峨の素封家角倉素庵、書道家にして刀剣の鑑定家、

そして現代のアートディレクターでプロデューサーの本阿弥光悦、

生没不詳でありながら皇室などに顧客を持ち、

絵屋の経営者で名高い画家の俵屋宗達の3人が

協力し合って製作した「嵯峨本」或は「光悦本」「角倉本」

といわれる豪華本の実物を、

飯田橋にある凸版印刷の博物館で観ることができた。

あらかじめインターネットで調べていたのだが、

流石に実物をみるとその当時の書物にしてはまさしく豪華本で、

圧倒的な迫力が感じられる。

印刷博物館で観たのは「徒然草」上下2冊と断片である。

完装本は豪華本ではなく並製本で、その代わり光悦の書がよくわかった。

断片はまぎれもなく、ベースに雲母(きらら)刷りが施されており、

その上に光悦の書が流れるように印刷されている。

嵯峨本は雲母刷りと2、3字ごとに版木を彫り

木活字で印刷され製本されるところにその特徴がある。

室町時代に中国から活字が輸入されそれまでは一字一字写していたものが、

大量に写本が可能になった。

寛政の三筆といわれる近衛信尹(のぶただ)、松花堂照乗

そして本阿弥光悦の中で飛び抜けていたのは光悦といわれている。

印刷博物館で観た光悦の書は素人目ながらもなるほど上手い。

筆の運びが流れるように感じられるのだ。

彼等が活躍するのは桃山から江戸初期にかけてである。

信長、秀吉、家康に繋がる文化芸術の領域は時の権力と相俟って絢爛と華開く。

茶人の千利休、古田織部、

絵画では狩野元信・永楽親子、長谷川等伯など

足利義満、義政の築いた東山・北山文化を引き継いで

日本の芸術史上に燦然と輝く一時代である。

その時代の美術・工芸分野での寵児であったのは光悦であり宗達なのだ。

宗達の偉業は100年後、尾形光琳や乾山等の琳派へと継承され華開く。

また角倉素庵や茶屋四郎次郎など

福岡や堺、京都などの海外貿易で一財をなした豪商たちの存在を

見逃すわけにはいかない。

彼らのようなパトロンがいなかったなら

この時代の芸術は花を咲かせる事はできなかっただろう。

洋の東西を問わずいつの時代も、

後世に残るような仕事はパトロンなしではでき得ない事は、

歴史が証明している。

嵯峨本が刊行されたのは慶長から元和にかけての十年くらいの間で、

伊勢物語、徒然草、方丈記、謡本などかなりの数が制作されている。

嵯峨本など出版が盛んになった背景には、

16世紀末に日本に来たキリシタンや朝鮮半島を通じて伝わった

活版印刷に刺激を受けて、日本でも次第に出版が盛んになった事であろう。

特に京都では足利政権の室町時代に、

豪商、五山以来の腕の良い職人、知識層などが存在していたことは

特筆すべき事である。

辻邦生の嵯峨野明月記は第一部と第二部という構成になっており、

主人公3人がそれぞれ第一の声私(光悦)

第二の声おれ(宗達)第三の声わたし(素庵)が

独白(モノローグ)で交錯させていくという珍しい形式で物語が進行する。

推理小説のいわゆる倒叙形式と同類の手法と分析する専門家もいるが、

私はそうは思わない。

マルセル・プルーストが推理小説的であるから

嵯峨野名月記も同類だという説には同意しかねるのだ。

このような形式の小説は私にとってはっきり言って読みづらい。

専門家の間ではそこが評価されたのかもしれないが、

何度も途中で前に戻ったり、

あるときは第一の声だけを読んでいくという事をしないと理解できない。

これは偏に私の浅学故の事で、恥じなければいけないだろう。

 

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