日本の美意識・[アンコール特集]
「蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ/河井寛次郎・講談社文芸文庫」(1)
『機械は新しい肉体という自覚を深め、
手と機械が本質的には同じであると、河井寛次郎は説く』
京都五条にある河井寛次郎記念館にはじめて訪れたのは、
1972年の秋だったと記憶している。
それから3度この記念館に足を運んでいるが、
そこでみる河井の器に心惹かれるのは、
あの豪放でありながらバランスの取れた色彩の美しさである。
乾山や魯山人とも違う、河井独特の華やいだ色彩が好きである。
そしてまた彼の造形感覚は、
同じ民藝の仲間である黒田辰秋の家具調度と
共通の何かを感じさせるような気がするのだ。
河井は1890年(明治23)8月24日、
島根県能義郡安来町に建築を生業としていた
河井大二郎の次男として生を受けた。
4歳の時母ユキが亡くなり、山崎家に里子に出され、
その後継母カタに育てられる幼年時代を過ごす。
20歳で東京高等工業学校(現、東京工業大学)窯業科に無試験入学、
陶芸家への道を一歩踏み出すのだが、
河井が陶芸を志すきっかけは、
叔父の足立健三郎という産婦人科医の勧めであった。
また幼い頃から、
家の前の小さな窯場で町の人が自分たちの台所用具を作る様をみて
興味を覚えていたという、幼児体験も見逃せない。
そして21歳の時、
イギリスの陶芸家バーナード・リーチが赤坂三会堂で開催した新作展で
リーチの作品をみた河井は、リーチの作品に大きな感銘を受ける。
河井はその場で壺を売約、後日リーチを上野の寓居に訪ねる。
21歳でこのような行動に出るところに河井の非凡さを垣間みる思いがする。
通常ではこの年齢で壺は買えないし、
ましてや無謀とも思える寓居に訪ねるとう事などはできないだろう。
河井は益子焼を世に出した親友の浜田庄司を通じて
民藝運動の創始者柳宗悦と知り合うのだが、
この3人で実によく中国や朝鮮、国内の窯元を旅行している。
柳は評論家であり作家ではない。
故に創作現場を観て感じるという事を繰り返しやっている。
また河井は画家の棟方志功や外国人学生、研究者などを自宅に長期間泊めて
芸術について論じたり、研究をさせたりしている。
写真で見る限りかなり神経質そうな印象を受けるのだが、
河井の友好関係は広く、色々な人が河井のもとに集ってくるのだから不思議だ。
その象徴的な出来事が、
昭和14年から2ヵ年半河井に世話になったアメリカ人ギルバートスン、
約1年世話になったフランス人ラルウは、
どちらも陶器の勉強に心を打ち込む立派な青年であったが、
滞在費の出所がなかった。
河井家では家族同様に彼等を暖かく遇し、素志を遂げさせたという。
河井が「引き受けるから心配するな」と言った時に、
ギルバートスンは声をあげて泣き続けたという。
*
文量が多いので(1)(2)に分けて掲載します。
*
ご質問、ご叱責なんでも結構ですjewellerystory_0512@yahoo.co.jp まで、お気軽にお寄せください。
