*昨日の続きです!!!!
日本の美意識・アンコール特集
『小説日本芸譚/松本清張・新潮文庫』(2)

『信長、秀吉、家康に仕えた3人の茶人にみるそれぞれの生き方
千利休、古田織部、小堀遠州
激動の時代にあっていかに自らを貫いたか』
利休が何故秀吉の逆鱗に触れたのかは人によりその解釈は様々であるが、いくつかのエピソードで漠然としながらも理解できる。
秀吉が黄金の茶室を造った時にあからさまにいやな顔をしたのが秀吉に知られたとか、臨済宗の僧古渓が1588年〈天正16年〉石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となったとき、利休の援助により京へ戻ったが、利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。
その際、激怒した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため秀吉は慌てて使者を引き上げさせたこと。
また秀吉が水をいっぱいに張った黄金の鉢と蕾のついた一枝の紅梅を利休に示し、これに活けよといったとき、利休はその枝の蕾を手でしごきとってそのまま黄金の鉢の中に散らした。
要するに秀吉に対するあからさまな当てつけである。
秀吉から堺に蟄居せよという命令が下ると、すぐさま聚楽第を後にするのであるが、その姿を見送ったのは細川忠興(幽斎の子、妻はガラシャ)と古田織部の二人であったという。
織部は利休を間近にみていた。
あるとき聚楽第で秀吉の朝会があったとき、床柱の工夫として肩衝と天目の間に野菊が一本はさんであったが、利休は黙ってその野菊を抜き取ってしまったという。
みていた織部は息を飲んだが、秀吉は必死で怒りを抑えていた。
そこまでする利休と秀吉の間には人生のライバルとして火花を散らす二人がはっきりと見えたのだろう。
利休は1591年(天正19)2月28日自庵で自刃した。
その知らせを聞いて織部は師を悼むよりは安堵感が胸一杯に広がるのを覚えていた。
常に完璧を求め、そしてその通りに生きた利休を、織部はいつも息苦しく、堅苦しく思っていたのだろう。
オレはああなりたくはない、と思いながらしかしいつの間にか自分も利休の生き様を必死に追っていた。
茶道という究極の美を追い求める3人であるが、利休は徹底した茶の侘びを、織部は利休の侘びを様式化し、遠州は作治奉行という仕事を通じて茶の環境づくりをした。
彼等が携わった総てのモノは現在破格の値段がつき、とても我々の及ぶところではない。
このような現実の中で、一体茶とは何であるのか、侘びとは何であるのか。
現在に至る代表的な家元は表千家、裏千家、武者小路千家といわれる三千家であるが、これらの家元と呼ばれる人たちは、利休の侘び茶をどこまで理解し実践しているのだろうか。
小説日本芸譚の他の章を読んでいると、こういった人間の業というか嫉妬というか、これも一つの権力闘争なのではといった事が頭を持ち上げてくるのだ。