ますぶちStyle・パイプの煙
悠々として急げvol.167
『人生の末路』
末路といっても決して悲観的な意味で捉えているわけではない。大袈裟な表現を借りれば、むしろ残された人生(あと何年生きられるかわからないが)とどう向き合うか、ということについて考えさせられるのだ。
最近の政治家や官僚は晩節を汚し、それを屁とも思わず開き直って、罪じゃないなどと言っている大臣もいるけれど、罪にならなければ何をしても良いというわけではない。そこには道義的な責任があるのだ。
歳をとって権力志向にしがみついているのは、どう考えても貧相でみっともないことだと思える。
それはともかく、歳をとるということは如何ともし難いことで、しかし生ある限りは生きていかねばならない。
生きていく以上は何か生きる張り合いといったものを見つけないと、活力が生まれないし、脳や身体が循環していかない。
65歳を過ぎて先輩たちの残した老後に関する本をかなりの数読んだけれど、少しは参考にはなっても、自分に当てはめると帯と襷になってしまう。結局は自分の人生だからどう始末をつけるかについては、自分で結論を出さなければならない。
現在の政治の方向性は弱者を救済するのとは真反対で、大企業ばかりが業績を上げるのを良しとしているように感じる。全体的にはそれで良いかもしれないが、格差社会は広がるばかりで、底辺に生きる人たちにとっては本当に辛い。
でも長い歴史を見てみると、すべからく現在と同じことを繰り返してきているのではないかと思える。いつの時代も一握りの為政者や権力者が優越してきたのだ。
人間は生まれてくる時も死ぬ時も一人だし、死んだらそれでお終いであることについては平等である。
少しくらい資産を持って高級な暮らしができても、それが幸福な人生だとは思えないことは当事者が一番よく知っていることだ。
なんどもブログには書いているけれども江戸時代後期の博多臨済宗の高僧「仙厓」は若い頃に散々苦労して、決して権力にはびこらず、すべての階級の人々から敬慕された仙厓。
「大悟透徹した禅師」「無欲恬淡の風雅人」「童心を持つ洒脱飄逸の大和尚」などと評され八十八歳の生涯を閉じたが、臨終に際して龍巖という後継者が印可を求めて仙厓の耳元で「師よ、お言葉を!」と囁くと、一言「死にとうない」と微笑のまま呟いた。そういって言って目を閉じたという。
この言葉の解釈は人によって様々だと思うが、自分なりに解釈すれば、この世の儚さを悟った、ということだろうか。
どんなに人から認められようが、大成功をおさめようが、かくも人生は儚いのである。
過ぎてしまえば一瞬の幻なのである。
ならばできるなら自分に誠実で有りたい。
皆そう思うけれど・・・・。
