『小説日本芸譚』松本清張著/新潮文庫

$『ますぶちStyle/宝石箱の片隅』

信長、秀吉、家康に仕えた3人の茶人にみるそれぞれの生き方
千利休、古田織部、小堀遠州
激動の時代にあっていかに自らを貫いたか




松本清張は実に多くの歴史上の人物を取上げ、

いくつかの手法で小説にしている。

私の読書数では多い作家の一人である。

この「小説日本芸譚」は

芸術新潮1957年(昭和32)新年号から1年間

12人の人物を取上げた中から10人を選んでいる。

芸術新潮での発表順は

古田織部、世阿弥、千利休、運慶、鳥羽僧正、小堀遠州、写楽、

光悦、北斎、岩佐又兵衛、雪舟、止利仏師の順である。

この中で鳥羽僧正と北斎は短編集「岸田劉生晩景」に収められている。


千利休、古田織部、小堀遠州の3人は

日本の侘茶(わび)を確立した人物として燦然と輝くが、

利休と織部はいずれも自刃して果てている。

利休は秀吉との確執、織部は家康の誤解を受けたといわれているが

不明な部分も多い。

この二人の末路をみている遠州は

自分の人生といかに対峙したのだろうか。



日本の茶の歴史は禅僧の一休宗純に始まるといわれ、

それが村田珠光、武野紹鵡と3人の弟子

今井宗久、津田宗及、千利休に受け継がれていくのである。

桃山時代から徳川時代にかけて文化・芸術は大きく華開くが

そのいずれもが信長、秀吉、家康という時の権力者と密接に結びつく。

そもそも文化・芸術というものは

時の権力や金力(スポンサーやパトロン)と結びつくことによって翔くのは

日本に限ったことではなく、

中国、ヨーロッパにおいても呵るべし、である。

そして何事も最高のレベルのモノを作るためには、

途方もないお金がかかるのである。

利休が求めたものは侘茶であったが、

一方で秀吉が作った黄金の茶室や、高額な茶道具などは

どのように理解したら良いのだろうか。



清張はこの3人を同じレベルで捉えている。

それは「人生における儚(はかな)さ、もののあわれ」である。

茶の世界でいずれも頂点を極めたにも拘わらず、

権力の前には無力を知る。

そしてその権力に立ち向かった利休と織部は自らの命を絶った。

しかしながら遠州は

この2人の人生を反面教師としてみていたにも拘わらず、

同じ思いに呑み込まれる。

小説の中で「・・・政一(遠州のこと)は、

なるほど、おれは無事に生き残ったな、と思うことがあった。

それは充足感からではなかった。

若い時は、利休や織部の後は踏むまいと決心したこともあったが、

年老いてくるにつれて、彼等の死をひそかに羨望した。

これも特技者の後悔だった・・・」と語らせている。

遠州は家康、秀忠、家光と3代に仕えている。

無事これ名馬という諺もあるが、

遠州は生きながらえたことは決して利休や織部に勝ったとは思っていない。

むしろその逆で

散り際を潔く飾った二人に嫉妬していたのが

手に取るようにわかるのである。



利休が何故秀吉の逆鱗に触れたのかは

人によりその解釈は様々であるが、

いくつかのエピソードで漠然としながらも理解できる。

秀吉が黄金の茶室を造った時に

あからさまにいやな顔をしたのが秀吉に知られたとか、

臨済宗の僧古渓が

1588年〈天正16年〉石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ

九州博多に配流となったとき、

利休の援助により京へ戻ったが、

利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。

その際、激怒した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、

古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため

秀吉は慌てて使者を引き上げさせたこと。

また秀吉が

水をいっぱいに張った黄金の鉢と蕾のついた一枝の紅梅を利休に示し、

これに活けよといったとき、

利休はその枝の蕾を手でしごきとってそのまま黄金の鉢の中に散らした。

要するに秀吉に対するあからさまな当てつけである。

秀吉から堺に蟄居せよという命令が下ると、

すぐさま聚楽第を後にするのであるが、

その姿を見送ったのは細川忠興(幽斎の子、妻はガラシャ)と

古田織部の二人であったという。



織部は利休を間近にみていた。

あるとき聚楽第で秀吉の朝会があったとき、

床柱の工夫として肩衝と天目の間に野菊が一本はさんであったが、

利休は黙ってその野菊を抜き取ってしまったという。

みていた織部は息を飲んだが、

秀吉は必死で怒りを抑えていた。

そこまでする利休と秀吉の間には

人生のライバルとして火花を散らす二人がはっきりと見えたのだろう。

利休は1591年(天正19)2月28日自庵で自刃した。

その知らせを聞いて織部は

師を悼むよりは安堵感が胸一杯に広がるのを覚えていた。

常に完璧を求め、そしてその通りに生きた利休を、

織部はいつも息苦しく、堅苦しく思っていたのだろう。

オレはああなりたくはない、と思いながら

しかしいつの間にか自分も利休の生き様を必死に追っていた。



茶道という究極の美を追い求める3人であるが、

利休は徹底した茶の侘びを、

織部は利休の侘びを様式化し、

遠州は作治奉行という仕事を通じて茶の環境づくりをした。

彼等が携わった総てのモノは現在破格の値段がつき、

とても我々の及ぶところではない。



このような現実の中で、

一体茶とは何であるのか、侘びとは何であるのか。

現在に至る代表的な家元は

表千家、裏千家、武者小路千家といわれる三千家であるが、

これらの家元と呼ばれる人たちは

利休の侘び茶をどこまで理解し実践しているのだろうか。



小説日本芸譚を読んでいると、こういった疑問が頭を持ち上げてくる。