私の写楽考
6月12日まで東京国立博物館平成館で開催されている「特別展 写楽」。
展示内容等の詳しい情報はHPに譲るとして、私も1977年頃からかなり意識して、資料などを読んできました。
流石に謎多き絵師ですから、多くの学者、研究者、作家などが自説を展開し、百花繚乱の様相はつい最近まで、喧々囂々論じられてきました。
これほど多くの人の関心を深めてきた写楽ですが、江戸末期の人であるにも拘らず、たった1年足らずしか活躍していなかったので、正体を突き止めることがなかなか出来ませんでした。
推理作家の松本清張が1977年に、「写楽の謎の『一解決』講談社」で阿波のお抱え能役者
、斉藤十郎兵衛だと看破していたのは流石ですが、いまいち決め手にかけていた点はありました。
写楽は誰か!!!。この論争に終止符を打ったのが、内田千鶴子でした。
彼女は映画監督の内田吐夢の次男の嫁になります。
写楽にのめり込むきっかけは、内田吐夢の遺品にあった、写楽に関する手紙を発見したことから写楽研究に没頭します。
そして1993年「写楽・考」、1995年「写楽失踪事件」、2007年「写楽を追え」などを出版し、名実共に写楽研究の第一人者になりました。
私も清張を初め、数人の書いた本を読みましたが、内田の本が一番説得力があり、現在では彼女の説が正しいとされています。
ところで写楽をこのように有名にしたのは、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが1910年、レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画かと激賞したのが切っ掛けで、大正時代頃から日本でもその評価は高まったとされています。
つまり、それまではどちらかというと一部の好事家を除いては、日本ではあまり知られた画家ではなかった訳です。
明治になって多くの美術工芸品が海外に流失し、この写楽の版画にしても、海外の美術館の方が素晴らしいコレクションを有していることがあります。
何もこれは日本に限ったことではありませんが・・・。
私は、写楽の絵はそれ程上手くはないと思っています。
むしろヘタクソの部類に入るのではないでしょうか。
写楽は、蔦屋重三郎という出版社の社長の手腕で、売れっ子の仲間にして貰った、と考えています。
今の芸能界がたいした技量もないのに、プロダクションの手練手管で有名になるのと似ているのではないでしょうか。
しかし、直ぐに自分の技量の限界を感じ始めたと思うのです。
それが証拠には、終盤の作品はフツーの絵になっていることでも判ります。
書いた量から言っても、蔦屋重三郎に酷使されたと伺い知ることが出来ます。
だから、1年足らずで蔦屋重三郎のもとから逃げ出したのです。
なんてちょっと受け売りの知ったかぶりでした。