あの日、どうしても帰れなかった。


1年以上前、まだ寒い季節。

昔お世話になった洋食屋に向かった。

あの頃とは違って、体はすっかり痩せていた。
薬の影響で、足取りもどこか頼りない。

それでもなぜか、行かなきゃいけない気がした。

店には入らず、裏手のキッチンへ回る。
身体が覚えている動きだった。

「あれ?◯◯君?」

振り向いた顔はオーナーによく似ていた。
でもすぐにわかる。

――息子くんだ。

小学生だったあの子が、すっかり大人になっていた。
軽く言葉を交わし、手土産を渡して、その場を離れた。

帰り道、少しだけ引っかかるものがあった。
このまま帰っていいのか、と。

オーナーがいるか聞けば済む話のはずなのに、
なぜかそれができなかった。

小さな違和感だけが残る。
結局、引き返した。

同じように裏手に回ると、ちょうど外に出てきたオーナーと目が合った。


久しぶりだな。


その一言で、時間が一気に縮まる。
近況を話し、思い出話に花が咲く。

そして、自分の病気のことを伝えた。

「膵臓か……それはまた厄介だな」

そう言って、ほんの一瞬だけ言葉が止まった。
その沈黙が、妙に印象に残った。

「みんな集めるから、また会おう」

そう約束して、店を後にした。



車を運転しながら、今日のことを思い返す。

店は何も変わっていなかった。
キッチンも、忙しく動くスタッフも、あの頃のままだった。

ホールから始まって、気づけばキッチンに入っていたこと。
料理のイロハを教わったこと。

夏はキャンプ、冬はスキー。
自然と、記憶が溢れてくる。

でも――
あの時間を一緒に過ごした人たちは、もう誰もいない。


オーナー以外は。


寂しいわけじゃない。
悲しいわけでもない。

それでも、ほんの少しだけ満たされている。

うまく説明できない感情を抱えたまま、家に帰った。

重い病気になると、
会っておきたい人に会っておこうとか、
行けるうちに行こうとか、
そんなことを考える。

でも、あの日は少し違った気がする。


春になった頃、ふと気づいた。

あの日、自分が会いに行ったのは――

オーナーでも、あの店でもなかった。


未熟で、必死で、がむしゃらだった頃の自分。

自分に会いに行っていたんだ。


洋食屋のオーナーという“鏡”を通して。


「あの頃は、本当によく頑張ったな」


心の中で、何度もそう声をかける。

すると――

あの頃の自分が、少しだけ報われた気がした。