いまも時折思い出すことがある。

まだハハが「認知症」と診断される前の話だ。

その朝も、ワタシは出勤前のあわただしい時間をすごして「いってきまーす」と、家をでようとした。

ハハはワタシが出かけるときは(家族の誰が出かけるときでも)玄関まで出てきて、その人が道路の角をまがるまで見送ってくれるのが常だった。

普段はそんな話をしないハハが、玄関で靴を履いているワタシに不意に言った。

  ハハ 「オカーサンがボケたら、面倒みてくれる?」

  ワタシ「見たる見たる~!」 ←いい加減な返事である

ハハの様子がいつもと違う感じがしたワタシはハグハグした。
ハグハグのはずなのに、ワタシの背中にまわされたハハの手は痛いほどワタシの背中にくいこんできたのを覚えている。


今思えば、ハハは「自分の中でなにかが起こっていること」に気づいていたのかもしれない。

「ナニが」起こっているのかはわからないけど、これまでの自分とはどこか違ってきていることに、不安を感じていたのかもしれない。

もっとゆっくり、そんなことを話し合っていれば不安は取り除けたかもしれない。

時々思い出して、結構強烈にワタシを責める思い出である。
「認知症」は、ある日突然スイッチを「ON/OFF」するように、デジタルに「正常/認知症」と切り替わるものではない。

認知症の原因によっても違うだろうから、一概にはいえないけど、時間をかけて、ゆっくりゆっくりと進んでいくのだ。

んで、家族が一定の時点で「おかしい!」と思ったときから「介護生活」がスタートする。
でも「ゆっくりゆっくりここまできたもの」は、「ゆっくりゆっくり時間をかけて進行していく」。


認知症を直す薬はないけど、その進行速度を遅らせることは「できる」。
ちょっとずつ「以前のその人」に近づけることも「できる」。
進行速度を速めること(=悪化させること)の方がもっと簡単なのは言うまでもない。

認知症の人は、これまでの「その人」とは違う。
でも「その人の核」はまだ残ってる。
上手くいえないけど。
決して「以前と完全に違う人」にはなっていないはず。

介護する側の気持ちのきりかえと、一定範囲の「諦め」は必要だけど、それができれば半分は乗り越えたのと同じ。

でも一人で介護生活をするのは、無理。
家族の協力はもちろんだけど、他からのサポートも必要になってくる。
町内会をまきこんで(笑)、『認知症フラグ』はたくさん上げておいたほうがいい。

 * * * * *

ハハとは「管つきでないと呼吸もできないようになったらもういい。延命治療はいらない。」という会話を交わしているから、それはひとつの目安。

「できるだけ畳の上で死なせてやりたい」と思ってるけど、それもあくまでも「目安」だ。

それらの会話は、ハハがしっかりしているときに「いざと言うときに娘が決断できるように」と発せられたものだったのかな・・・と今のワタシは思っている。

 * * * * *

ある程度の山を越えると、それまで自分の親だった人が「幼い子供」に還っていく。
お菓子屋さんの前で「お菓子、買ってよう」とダダをこねるハハを、ワタシはかわいいと思う。

そしてワタシが幼い頃、ハハに言われたのと同じように「家にあるやつを先にたべてからー」「今そんなこというんやったら、なんでご飯もっとたべへんの!」と言っている。

 * * * * *

介護するのが娘だったら、こんな感じ。
息子や夫婦だったら、どうかなぁ。。。
ちなみに義理の親子間は「ムリ」だと思います。

男の人のほうが真面目だから、几帳面に世話をしてしまうかもしれない。
ワタシの介護はいーかげんです(笑)、しんどいの、ヤだもん。

しんどくなって倒れたら、困るのは「介護されてるハハ」じゃなくて「介護してるワタシ」だもん。

だからワタシはギリギリまでがんばらない(もともとだが)。
「一番大事なのはワタシ」だと思っている。

えらそうなことをいってますが、もちろんわかんないですよ?
どうなるかなんて。
先のことなんて考えてられるほど、認知症介護生活は甘くないのだ。



あと、ふたつだけ。

「笑顔や笑いは伝染する」 「彼らは気配に敏感である」
だから、介護する側は、穏やかな気持ちで笑顔で接したほうがいい。

その意味では、介護の仕事をしている人や、ヘルパーさんたちの「笑顔」は、決して「0円ではない」のだ。

なぜかって?
今、介護生活を送っているワタシ自身が「こんなこと、他人によーせんわ」と、激しく思っているからだ(笑)。
この種のニュースをみると、素通りすることができないワタシは「介護生活者」(笑)。
そして、この種のニュースをみかけた時にスルーできないのは「いつ、ワタシ自身の名前がそこに入れ替わって載っているかわからない」と怖くなるからだ。

 * * * * *

ニュースのコメントとか、日記とかみてると「認知症は安楽死させよ」という意見が多くて、びっくりするんだけど、「アナタは自分をかわいがって育ててくれた人に対して、その決断をくだせるんですか?」と聞いてみたい。

「死ぬの、いや。○○(アナタのお名前)、助けて・・」って、すがってくる親を「いや、もう安楽死してもらうから」というのは「殺人」じゃないんだろうか? 
少なくともそこには「安楽」とか「尊厳」という言葉は見当たらない。

その人が「生きていていい人間かそうでないか」をいったい誰が決めるというんだろう??

どこで線引きするんだろう?
大体「認知症患者」と「精神疾患患者」と「うつ病」の、どこにどういう区切り線を引くというんだろう??(笑)

すべての人が発症するものではない以上、年齢ではひけない。
(こわいよー、姥捨て山じゃん)

言ってることは一部、わからないでもないんですよ。

でもね・・・

 * * * * *

ワタシは父祖母が認知症になったときは、ワタシ自身が若かったし、終りがみえない日々を呪ったし、「早く死んでしまえばいいのに」とも正直思った。

でも、今、ハハの面倒をみているワタシは違う。

今より進行しても、父祖母のときほどには至るまい・・と思う。
「くるなら来い」と思う(笑)。

なかなか面倒くさいことも多いけど、ハハには長生きしてほしい。
たくさん笑ってほしいと思う。

 * * * * *

国民がここまで「介護」に追い詰められていることを、「アノヒト達」は知っているんだろうか。

どうしたらいいのか、なんで、考えないんだろう。
なんで「情報共有」しなくて、「秘密」なんだろう。

30年以上たっても、目新しい対処法を見つけられない医者を交えて「有識者委員会」かなんか作ってないで、認知症介護経験者から「聞き取り調査」してQ&A本でも作った方が、ナンボか税金の払い甲斐があるわむかっ(怒り)むかっ(怒り)むかっ(怒り)

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■認知症の妻殺害容疑で逮捕=71歳夫「介護疲れた」―北海道警
  (時事通信社 - 02月08日 20:01)
  http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3264859
今朝のヘルパーさんは、いつもとは違う人だった。(ちょくちょく来てくれるけど)

20分ほど他愛のないことを話してると、送迎の車が着てくれた。
ワタシはいつも玄関で見送り、ヘルパーさんは運転手さんとハハを車まで送っていってくれる。

戻ってきたヘルパーさんが、報告するようにワタシに言った。

「お母さま、運転手さんが若い男性だと機嫌がいいみたい。
 いつも笑ってお話されてますね。
 年配の運転手さんとか、女性の運転手さんのときとは全然違うわぁ」

瞬間、ワタシはちょっとカチンときた(笑)。
それではまるで、ハハが「イロボケババァ」みたいではないか。
確かにチチが亡くなって18年・・・・・

・・・イヤイヤ、しかし、ちょっと待て。

運転手さん(兼任者含)は数人いる。
若い男性が3人くらい、若い女性1人(美人)、年配の男性2人。

それぞれの印象を思い出してみる。

年配の男性2人と若い女性は、愛想はいいけど、基本的に無口。
ワタシとも挨拶くらいしかしない。
若い男性たちは、そろってよく声掛けをしてくれるし、ハハともよく冗談を言い合ってくれている。。

そして、ハハは「自ら話題をフルことはないが、聞き上手で、いつの間にかリーダーになってたタイプ」であった。

てことは、「会話のキャッチボールをしてたら、受けるのがうまいから、投げてくれる人がいないと返しません」ってことではないかな。

いつもきてくれるヘルパーさんは、すごくにぎやかで話好き。
ワタシとも仲良しだから、うるさいうるさい(笑)。

今日来てくれたヘルパーさんが悪いとかじゃなくてね。


ホラ。
たくさんの人から話をきいて、それがパズルみたいにぴったりと形づくれたときの面白さ(笑)。

ほんと「人間同士の相性」なんだな、と思う。
やっぱりここでも「コミュニケーション」って、大事。
ハハの介護をするようになってから、ワタシは「自分が両親にどれだけ愛情を注いでもらったか」「他のなにものでもない、このワタシ、ナマケモノで、勉強も嫌いで、家事も掃除も嫌いな(ここはワカラン・笑)ワタシを『ひとりの人間』として受け入れて愛し、育ててくれたのか」とよく思うようになった。

自分で「愛」なんて文字を書いててこっぱずかしいけど(笑)。

なんかね、もう「思う」というより、小さい頃の想い出(今のワタシを形作る素となった事件)を瞬間的に思い出すとともに、痛感する。

いや、ほんま。

 * * * * *

そして、今。

ゆっくりとではあるけれど確実に、親と子供の関係が逆転していく(現在のハハはワタシを頼り切っている)のを経験していると、やはりそういう光景は「子供に見せておいたほうがいいのではないか?」と思うのである。

その意味では、ワタシは普段ボロクソに言っている父祖母に対してすら、ものすごく感謝しているのだ。

 * * * * *

「歳を取る」ということがどういうことなのか。
「結婚して、家庭を作り、子供を育てる」ということがどういうことなのか。
「大家族で暮らすことって悪いことではなかったのではないか。」


兄弟の数を言い出すとややこしいからおいとくけど、とりあえず「一人の人間には2老人」(←老人を単位にするなよ・・)が必要である。

男と女が結婚したら、それぞれの親とのかかわりが発生するから「4老人」になる。
「近い将来5人に1人は認知症になる」と言われている現在、その「4老人」の中に「認知症が発生する可能性」「身体が不自由になる可能性」「病気で寝たきりになる可能性」・・・さて「介護」からアナタは逃げきることができるのか?

病院や施設に放り込む?
OK。
それもひとつの選択肢だから、否定はしない。
でも、お金がかかるよ? 
アナタ、それだけ稼げるの?

子供だって生まれてくるだろう。
「共働き」で働いていた女性は、数年の間は戦線離脱をせざるを得ない。
1年や2年の「育児休暇」で、子供がひとり立ちするものでないことくらい分かるよね?

子供が育つにつれて出費もどんどん増えていく。
母親が社会に復帰したところで、かつて貰っていたほどの賃金はもらえないだろう。
家族の中心であった自分達もだんだん歳をとり、身体も昔ほど動かなくなってくる。

・・・どうする?

ワタシはひとり身だし、残りの人生を放り投げることが可能だ(笑)。

上で言ったような人生設計って、普通でしょう?(思い切り外れてるワタシが言うのもナンだが)

そんな生活が「普通に働いていて送れない」って「おかしい」と思わへん?
ワタシが子供の頃は、それで生活できてたんやで?
腹立たへんの?? 
ワタシは腹が立つ。
「オンナをバカにしてんじゃねーや!」って、思う。

デモもいいけど、選挙のときくらい真面目に考えて、ちゃんと選挙には行かなアカンで。


大きなひとつの家に「2老人」と「夫婦」と「子供」が住んでいる。
ワタシが子供の頃はそんなお家はけっこうあった。
この場合の「2老人」は基本的に夫の親だった。
たまに、妻の両親も合わせて「4老人」「夫婦」「子供」というところもあった。

どうせ介護することになるのなら、ひとつところに纏まってたほうがいいんじゃない? と思う。

「4老人」と同居してたら、子供の手が離れるまでは彼等が面倒見てくれる可能性が高い。
金銭的援助も魅力的。

おじいちゃんやおばあちゃんに可愛がってもらってたのに、そして彼等が老いて「ある日突然いなくなってしまう=死」ことは、つらいことだけど、経験しておいたほうがいいと思う。
「死んでしまった人とは、二度と会えないこと」も。

家族がひとりいなくなると「家」がどれだけ広くなるか、知ってても損はしない。

そして、断言する。
「おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がってもらった子は、年寄りに優しい。」
普段どれだけ、親に逆らっていても、だ(笑)。


「歳を取る」ことから逃れられる人はいなくて、いずれは「子供である自分」もそうなっていくのだということ。

それを、今この瞬間言葉にして理解させなくても、「経験」として持っていれば、きっといつか役に立つと思うんだけどなぁ。

 * * * * *

「ワタシは結婚してダーリンいるから関係ないもんねー」といまだに言ってるアナタに、教えてあげましょう。(ブラックぶぶ降臨・笑)

夫婦が「同時に」死ぬことはほとんどない。
そして平均年齢から考えて、生き残るのは「女性」の方が圧倒的に多い。
子供がいたところで、アナタが「親の世代」を看取る様を見せてない子供が、アナタを看取ってくれると思う?
何年かは必ず「ひとりきり」で生活することになるのだ。

なんか、大勢で、ケンカしながらもワイワイ生活するのって、楽しそうやなぁ・・と最近思うし、ほんとはそれでよかったんじゃないのかな? と思う。

人が大勢になると人間関係も難しくなるけど、その中で子供は「空気を読む」ことを覚えていくのである(笑)。

嫁姑の確執があったとしても、みんながすこしずつ「やさしくなって」譲れるところを譲り合えば、きっと、ヤリクリできる。

だいたい「親と子供」だけの家庭で、人間関係に確執は、ないというのか??(笑)