結構キョーレツな、父祖母の話をしよう。

 * * * * *

父祖母の様子がおかしいことに最初に気がついたのは「長男の嫁」であるワタシのハハだった。

チチの実家の都合で、ハハはほぼ半日、チチは夜2~3時間、チチの実家に毎日通っていた。

ハハが初めてチチにそのことを相談したとき、「お前はオレの親をキ●ガイ扱いするのか!」と滅多にそういう言い方はしないチチが怒ったそうだ。
確かに、ワタシに似て「瞬間湯沸器」なチチだったが、そういう物の言い方をした記憶はワタシの記憶にはない。

現在、自分が直接「認知症」と対峙するようになって、わかる。
一日2~3時間だったら、多分気づかない。
ましてや、チチは長男で、男で・・・実家に行ったからといって、父祖母とは挨拶程度の会話しかしなかったから。

ハハは、チチの妹たちに相談した。
その頃叔母達は、もう全員実家を出ていたので、やっぱりわかってもらえなかった。
「義姉さん、ひどいこと、言う!」と、4人もいる叔母達からかわるがわる責められたと言う。

彼らが特別なのではないのだ。
同居してない実の子供の反応というのは、こんなものだし、若干不審に思うところがあっても「自分の親に限ってそんなことになるはずがない」と認めることはなかなか出来ないのだと思う。

それでも、父祖母は一人暮らしをしていたものの、商売をしていたので、「なんか、おかしいで」「最近、鍋ばかり買ってくる」という声が店員さんから聞こえてくるようになり、証拠の品をいろいろ見せられると、チチも認めざるを得なくなった。

当時はまだ「認知症」という呼び方ではなく「老人性痴呆症」とか「脳軟化症」とか「アルツハイマー」とか、非常にざっくりとした呼ばれ方をしていた。

でも、治療法など何一つ、薬すらなくて「家庭で家族が介護する」か「施設に入れる」しか選択肢はなかった。

ワタシの周囲では「施設=キ●ガイ病院(というか、どんなところに入居するのかすらわからなかった)」だったので、当たり前のように「長男」であるチチが面倒を見ることになり、それは実質的に「ハハが父祖母の世話をする」そして「そのフォローはウチの家族がする」ということだった。

 * * * * *

父祖母の自宅(チチの実家)と我が家は、ゆっくり歩いても15分もかからない距離にあった。
なので、最初は「日中は実家で、夜はウチで見守る」感じになった。

でも今思うとこれは、父祖母を混乱させただけだったのではないかと思う。
「長男の家に泊まりに行く」と言っても、短いスパンで忘れてしまうから「自分が今どこにいるのか」と、ただ不安にさせただけだった・・・ハズ。

日中の行動にも顕著に異常が見られるようになったので、終日ウチに引き取ることになった。
これは、多分先よりももっと混乱と不安を招くだけだったのだと思う。

当時、ワタシは近所でアルバイトをしており、勤怠に多少の無理はきいたので、昼間の父祖母の見守りをハハに頼まれることもあった。 (つづく)
お昼休みにパンをかじりながら、デジタル新聞を読んでいたワタシは、この記事を読んで固まってしまった。

頭の中には「怖い」という言葉がいくつもいくつもぐるぐる回っていた。
被告が「怖い」のではない。

自分が同じところに立つことが、あるかもしれない・・・という意味で怖かった。

その次に、ただただ「哀しく」なった。
記事を読み進むうちに、泣きそうになった。
ナイショだが、帰宅してから、思い出すたびにちょっとだけ泣いた。

なんてやさしい「息子とお母さん」だったのだろう。

意識していなかったにせよ、自分の手で死に至らしめた母親のことを、公判の場所で「とてもやさしい母でした」という。
愛情をいっぱい注いで育ててもらって、彼もそのことをちゃんと感じ取っていないと、こんな言葉は出てこない。

慣れない家事をしながら(それはワタシも同じだがっ)、「おかあさん」を気遣い、お母さんの希望をききながら、できるだけそれに添うように、毎日暮らしていたのだ。

検察や裁判官の言い草がカンに触る。
「テメーラ、介護したことあるのか! デカイ顔してエラソーなこと抜かしやがって!」と思う。

介護生活は「いつ終わりがくるか」が見えないから、ときに絶望してしまう。
「この生活はいつ終わるんだろう?」
「自分はいつになったら、自由な、『自分』の生活が出来るんだろう?」って思う。

こっちの言うことを聞いてくれなかったり、後始末に手間のかかることをしでかしたり、だだをこねたりするところは、小さな子供に似ている。

子供はひとつひとつ覚えて成長していくし、「保育園に通いだすまで」「小学校に入るまで」という「期限」が見える。

でも、お年寄りの介護はトラブルの内容は同じようなことでも、何度も何度も同じことを繰り返す。そしてどんどん症状は悪くなっていく。
その生活が終わるのは、「被介護者が死ぬ時」だ。
そんなの、誰にも予測できない。
これは、本当にしんどい。経験してない人が想像してる以上にしんどい。

ワタシは今のところ、幸いそこまで追い詰められた生活はしていない。
でもそれは、あくまでも「今のハハの状態で」という条件がつくのだ。
介護生活をしている人たちは多分そうだと思うけど「先のことなんて考えてない」。
なぜって「被介護者がどんな変わり方をするか」なんて、誰にも分からないからだ。

事故(暴力をふるうのはいけないけれど、ワタシはこれは事故だと思う)を起こした被告を責め立てるよりも、「そうならないようにするにはどうしたらいいのか?」を考えるように、国会議事堂のオッサン共に怒鳴り込みに行ってこい。
アンタらがいえないなら、ワタシがいってやる。

今は世界中で問題になっている「認知症」。
G8かなんかで「世界で力をあわせて対策を練ろう」みたいなことを言ってるけど、それは「認知症の原因をさぐり、治す方法を探し出そう」ということではない。
「できるだけ軽い状態を長く維持して、一般社会と共存できるようにするにはどうしたらいいか?」と考えることだ。(・・・と思ってる国は思ってるハズ)

でも、賭けてもいい。
間違いなく「日本のオッサンども」は、前者だと思っていて,また無駄に税金を使うだけ使って成果はなし、で期限を迎えるだろう。

だってそうでしょう?
30年前にウ
チの父祖母は「アルツハイマー」と診断されてたんだから。
30年前から「アルツハイマーはあった」んだよ。

でも、30年経っても「身体に合えば進行を緩やかにする(止める、ではない)薬」が数種類できて、「認知症にもいくつか種類があって症状も違う」ってことがわかった・・くらいしか進んでないのだ。(ワタシが知らないだけかなぁ)
10年もない間に「画期的に効果のある治療方法」など見つけられるものか。


「介護」について一生「他人事」で済ませられる幸運な人などいない。
「親」から生まれなかった人なんていないでしょう?
その人に「親」がいなくても、結婚したら配偶者の「親」がついてくる。
「配偶者」だって、その中に入るんだよ。

「親の兄弟」や「祖父母」の世話をしている人や、一人で複数の患者さんを介護してる人だって、今現在、実際に存在するのだ。

「経済成長」について、構ってるヒマなんぞないと思うぞ。
「ニホンの経済成長」より「我家の明日の財布」の方が大事である。

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■母への思いが変わった瞬間(連載:きょうも傍聴席にいます)
 http://www.asahi.com/articles/ASGCB43DHGCBUTIL00P.html
 朝日新聞デジタル 2014年11月18日16時19分

やせ細っていく、優しかった母。息子は1人で介護を続けた。体力がなくなってきたからか、母は入浴や食事を嫌がり始めた。2人で孤立するなか、息子の心配は、いつしかいら立ちに変わり、そして、暴力へとつながっていった。

東京地裁の715号法廷。10月28日、中野雅昭被告(39)は初公判に、緑色のネクタイをしめ、スーツ姿で現れた。母親に暴力を振るい、死なせたとして傷害致死罪に問われた。裁判員らの視線が集まるなか、緊張した面持ちを見せた。

検察側の冒頭陳述などから、事件をたどる。

中野被告は両親とともに、東京都中野区のマンションで暮らしていた。高校卒業後、スーパーで11年間勤務。だが、上司のパワハラを理由に辞職した。その後、別のスーパーで働いたが、5年前からは無職だった。

父親は15年前に他界。以来、母のれい子さん(当時64)と、2人で生活してきた。定職につかない息子を、母が責めることはなかった。「自分のやりたいことが見つかるまで、待っていいよ」。そう言って、見守ってくれていた。

一方で、れい子さんは骨粗鬆症(こつそしょうしょう)を発症。2011年から入退院を繰り返し、次第にやせ細っていった。

ほぼ毎日の通院には、中野被告が付き添った。食事は中野被告が用意したが、レトルト食品やスーパーの総菜が多かったという。

事件の1年前。れい子さんは雪で滑って、大腿(だいたい)骨を骨折してしまった。入浴やトイレも、1人では難しくなった。時折、尿や便を漏らすこともあったが、中野被告が下着などを手洗いした。

いつも寄り添う2人の姿を、マンションの住民がたびたび見かけている。

 被告人質問。
 弁護人「1人で介護をするのは、負担だったのでは」
 被告「正直、負担でした。でも、仕方のないことだと思っていました」
小さな声で、こうも言った。
 被告「とても優しい母でした」

 なぜ、暴力が始まったのか。きっかけは、事件のほぼ半月前だ。

 被告「1月13日です。おかゆを用意したが、母が食べず、顔を、平手打ちしてしまいました」
 弁護人「なぜ暴力を」
 被告「朝の『打ち合わせ』で、食べると言っていた。約束を守らなかったので、カッとなってしまいました」

人付き合いが苦手だった2人は、毎朝、れい子さんが集めていたキューピーの人形をそれぞれが持って、人形劇のように「打ち合わせ」をしていた。

ご飯を食べるか、散歩に行くか、お風呂に入るか。

心配性できちょうめんだった中野被告は、打ち合わせで決まったことを守ろうとした。だが、れい子さんは次第に、打ち合わせに反して、「食べない」「しんどいから風呂には入らない」と言うようになった。

 被告「日に日に弱っていく母を見て、疲れていました」

「母のため」を思い、食事や入浴の準備をした。だが、応じてもらえない。「打ち合わせ」で決めたことも守ってもらえず、ストレスがたまっていった――。中野被告はそう説明した。

3~4日に一度、れい子さんに暴力を振るうようになった。

そして、1月29日。

中野被告は、れい子さんのためにレトルト食品のおかゆをあたためた。だが、れい子さんは「食べない」。カッとなって、顔をたたいた。

夜、風呂場に連れて行ったが、「しんどいからやめとく」。

布団が敷いてあった台所まで戻って、寝かせた。だが、怒りは収まらなかった。背中を強く蹴った。何回蹴ったか、覚えていない。

れい子さんは、「うぅ」と小さなうめき声を上げた。中野被告は心配になり、「ごめんね、大丈夫?」と聞いた。「大丈夫」。小さな声が返ってきたという。

自分を鎮めるため、中野被告は自室にこもった。10分ほど経ったころか。心配になり、様子を見に行った。れい子さんは薄目を開けたまま、動かなかった。慌てて119番通報したが、病院で死亡が確認された。

 検察官「暴力を振るったとき、申し訳ない、とは思わなかったのか」
 被告「そのときは、怒りの方が勝ってしまいました」

検察官の口調が、さらに強くなった。

 検察官「暴力を振るったのは、あなたの感情によるもの。やむにやまれず、という状況ではない」
 被告「……、感情任せの、短絡的な行動でした」

れい子さんは、生活の一部で支援が必要な「要支援1」に認定されていた。だが、デイサービスなどは利用していなかった。

 検察官「なぜ、利用しなかったのか」
 被告「母とも相談したのですが、人とコミュニケーションをとることが苦手で。人を家に入れることも、極端に嫌がった」

裁判員も質問した。

 裁判員「自分1人で介護を続けることは難しい、と思ったことは?」

 被告「ありました。でも、自分でやれることはやろうと思いました」

検察側は論告で、「やせ細った母親への暴力がいかに危険か、被告は認識していた」とし、懲役5年を求刑した。

弁護側は、執行猶予付きの判決を求めた。「現代の社会を反映した事件で、暴力行為は偶発的なもの。深く反省している」

最終意見陳述で、中野被告は用意してきた文書を読み上げた。

 被告「母に対して本当に申し訳ない。人として、やってはいけないことをしてしまった。今更ですが、親孝行できなかったのが悔やまれます」

判決は10月31日に言い渡された。懲役3年の実刑判決だった。

最後に、裁判長が「裁判員、裁判官からあなたに伝えたいことがあります」と切り出した。

裁判長「被告はきまじめで優しく、きちんとした勤務もしてきたが、社会性の乏しさから不幸な事件につながった。お母さんの死という重大な結果について、さらに反省を深めてほしい。お母さんも、1人できちんと社会生活を送ることを望んでいると思います」

中野被告は、うなだれたまま聴き入っていた。(石川瀬里)

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食事は毎日のことだから、みんな面倒だと思うけど(笑)。

ウチの毎食事前の会話。

  ハハ 「おなかすいたヨー」
  ワタシ「何、食べたいの?」
  ハハ 「何でもいい!」
  ワタシ「ウソつけ!(笑)」
  ハハ 「ウソちゃう! お腹すいてるから、何でも食べる!」
  ワタシ「毎日、そんなん言うけど、いつもウソやん」 
  ハハ 「今日は、ホンマ!!」
  ワタシ「・・・どんなもんがいいの?」

・・・で、結局ワタシがアレコレ考えて、食事の内容を決めるのだが、毎回必ず「これは違うねん・・・」と言われて、半分以上残される(というか、クーちゃん行きになる)のだむかっ(怒り) が、いつも「ハハには、本当は『何が食べたい』ってないんとちゃうかなー」と思う。

そして、食事をおえた後、5分ほどしたらハハがまた言う。
「このままやったら、お腹すくやろなぁ・・・○○、買ってきといて」
「○○」の部分には、「パン」「おにぎり」「おうどん」など、直前の主食とは違うものが入る(笑)。

 * * * * *

そんな話を、ウチに来てくれるヘルパーさんにしたら、
「80歳あたりからは、鈍ってきた味覚がもうなくなってしまって『何を食べても味しない』って言われる方が多いですねぇ」と教えてくれた。

何を食べても「美味しい」とは感じないんだって。
なんて寂しいことだろう。(T_T)

 * * * * *

↑ の話をネタに日記を書こうと思ってたところ「アレレ?」と思うことがあったので、書く。

今日はワタシもハハも休みなので、電車で一駅のところでやっている『はにゅ展』目当て(ワタシが)に、お昼をその近くで食べようとハハを誘って出かけた。

「汁気の多いものが食べたい」とハハが言うので、ワタシやイモートが幼い頃からチチがよく連れて行ってくれた『美々卯(みみう)』に『うどんすき』を食べにいった。

我家が一番「絵に描いたような家族」だった頃やなぁ・・と思い出すと、出汁ばかり飲みすぎてチチに頭を張り飛ばされたこととか、沸騰した出汁に活エビをいれるのがこわかったり、「こんなことまで覚えてたのか」というようなことがあれこれ思い出されてきて、まぁ、懐かしく思いながら、お鍋が沸騰するのを待っていた。

しかし。

「ん? なんか、味、変わった?」って。
「そば寿司のタレ、すっぱくない?」って。

ワタシは思いながら食べていた。
もう、『美々卯』の店主に書く手紙の文章まで頭の中で推敲しておりました(笑)。

なんとなく不本意な思いで会計をすませて、エレベーターにのった瞬間(ワタシとハハしか乗っていなかった)、ハハが「なんか、味変わったなぁ」という。

味覚についての話題は普段ほとんどないので、珍しいことである・・ってか、ワタシと同じこと感じてるし。

ワタシが「うん。おうどんにはもっと腰があって煮崩れたりせんかったし、お出汁の味付けもちょっと変わったね。そば寿司のタレも・・」という言葉を引き継いで、ハハが「酸っぱくなってたな」と言った。

「そうそうそうそう!」とうれしく思いながら「アリ? 味、分かるン?」と。

ウチの晩酌焼酎を飲んでて、たまに作るおかずの味付けもおかしいんだから、味覚が鈍くなっているのは確かなはずなのだ。

こんな不思議が「認知症」には時々ある。
なにがどうなってるのか、わからないけど、とにかく「ある」。

そのたびに、ハハにからかわれているような気がするワタシである。
いつものように、焼酎のお湯割を作ったハハが二階に上がってくるなり、言った。

 ハハ 「アンタ、階下の焼酎にお水入れた?」

      ぎっくー

(マテマテマテ。これまでずっと気づかれなかったのにナンデや??
 昨日作ったのもいつもと同じくらいの割合のはずや。あわてるな!ワタシ)

一瞬の間にこのようなことを考え、あまり間をおかずにワタシは答えた。
(ウソの返事をするときにおかしな間を置いてはいけない・・・笑)

 ワタシ「んにゃ? なんで??」
 ハハ 「なんか水みたい・・・」
 ワタシ「そんなこと、ないやろ・・・」
 ハハ 「・・・・」

昨日の夜、王子のオカーチャンと三人で食事に言った時に、いつもより1杯多く焼酎のお湯割りを飲んで、かなり久しぶりに酔っ払ってたからかなぁ。

「生中1杯、お湯割り1杯」が現在の適量なのだろう。

ちょっとこじゃれた店で、生中のジョッキが小さかった(持ち手のないヤツ)ので、食事の出てくる速度とハハが飲む速度が、好ましくないマッチングを起こしたようだ。

大きなジョッキだと飲むのに時間がかかるから、お湯割までたどり着かないか、飲んでも1杯で終われるのよね~。

あ、ちなみに2、3杯目はワタシを通さずにハハが自分で勝手にオーダーしました。


とりあえず、しばらくの間は少し焼酎の量を増やして、がっつりシェイクするようにしとこ。




・・・・・実は、心臓の「バクバク度」は昨日のクーちゃんの方がすごかった(笑)
アルコールは認知症に影響するといわれている。
まぁ、毎晩大酒くらってなければ、あんまり関係はなさそうです。

どーも、あちこちから聞いたことをまとめてみると、結局「認知症」って「生活習慣病の延長」なんじゃないかと思えてくる(ワタシが思ってるだけよ)。

 * * * * *

ハハの話をしよう(笑)。

ハハの「認知症」のうち前頭葉がなくなってるのは「コレはアルコールのせい!」と医者に断言された。どんだけ飲んだらそうなるねん。

ワタシが本当に小さい頃は、ハハは「お付き合いで乾杯で口をつける程度」だったと思う。

お酒を飲むようになったのは、40歳くらいかなぁ。
チチが仕事の付き合いで飲み会に行くことが多くなった時期があったのだが、またこのチチというのが本当に下戸というか・・飲めないお酒を飲んで帰っては、夜中にトイレで「ゲロゲロ」とカエルのようになっていたのね。

「うるさくて寝られへん!」と怒っていた鬼のような娘はワタシです。

そうこうしてるうちに、その「チチの付き合い」にハハが同行する必要が生じてきて、そうなると日本のオッサン社会って、チチの代わりに「じゃぁ奥さん、どうぞ」ってなるじゃん?

で、飲んでみたら意外と顔にでないタイプだったから「おー、奥さん、チチさんより強いねぇ、お代わりどうぞ」ってなっちゃったわけです。
ハハもおだてられて「自分はお酒に強い」と思っていい気になってしまった。
(まぁ、確かにハハが飲みすぎでゲロゲロ言ってたことはないから強いんだろうけど)

お酒の種類も、ビール→ワイン→ウイスキー→日本酒→焼酎 という経過を経て焼酎に着地した。

 * * * * *

チチが突然亡くなったとき、イモートはもう結婚して家を出ていた。
ワタシも働いてたから、ハハはワタシを送り出したら、ワタシが帰って来るまでずっと一人ぼっちだった。

王子が小学校時代の6年間は、ウチに帰ってきてたから気晴しにはなってただろうし、王子が5年生のときにクーちゃんがきたけど、やっぱり小学校の5年生にもなると友達と遊ぶほうが楽しいだろうし、犬は話し相手にはならない。

王子がほとんど毎日夕食の場にいてくれて、ハハの作った食事を「オバチャンのご飯は美味しい」と言ってくれてたことは、やっぱりハハの「やりがい」にはなってたと思うし、ワタシはその点で王子にとても感謝している。

でも「積極的に新しいお友達を作る」ことが苦手なハハは、家にひきこもって、お酒の量が増えていったのだと思う。

唯一同居していた家族であったワタシは、自分の生活(仕事とか遊びとか)を、そんなに大きく変える必要が生じていることに気づかなかった。
「なんか、お酒の量増えてるんちゃうか?」とは思っていても、どうやってそれをチェックしたらいいのか分からなかった。

ワタシは、お酒は甘いジュースみたいなのばっかりで、「美味しい」と思いながら飲むことってあんまりない(一応味はわかるようだけど)ので、お酒に失礼な気がして家ではあんまり飲まなくなった。

ハハの血か、ワタシも「いくら飲んでも顔にでない」タイプなので、うっかりしてると翌日えらいことになったけど、最近は飲んでも一杯くらいかな。

もーな、
いろいろお世話になったオジサンたちだけど、ハハにお酒をのませていい気にさせたことだけは「よけいなことしやがってむかっ(怒り)」と、結構ネに持っている(笑)。

お酒の飲めない人に無理に飲ませるのは、やめてあげてください。
ちょっと飲める人でも顔が赤くならないからって、継ぎ足しにくるのはやめてください。
ほしかったら手酌で飲みますので。

アカンで、あの風習、ホンマニ。