私たちは象徴天皇制をいかにすべきか? | ワーカーズの直のブログ

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私たちは象徴天皇制をいかにすべきか

 

 2019年5月1日、明仁天皇は生前譲位し、徳仁皇太子は天皇になった。その結果、元号は平成から令和へと代わった。

 私たちが考えなければならないのは、戦前の日本の国家体制と戦後日本の国家体制とは何がどのように異なり、引き継がれているものは一体どのようなものかという点にある。

 

戦前の国家体制と戦後の国家体制の差異と同一性

 

 戦前の日本国家は、陸海軍に対する統帥権を持つ大元帥として位置づけられた天皇を頂点とする官僚制による中央集権の国家体制、つまりそれが戦前日本の国体であった。

 

 それに対してアメリカ等の連合軍との戦争において一敗地にまみれた戦後の日本国家は、明治期に天皇を輔弼した有司専制による統治を天皇下の帝国議会による統治に切り替えたが、敗戦後はアメリカにより一切の統治行為を行う事を許されず、天皇は憲法に定められた国事行為に限定されたもののみを行うことにされた存在となる。

 

 そして国家は象徴天皇をいただきながらも「民主」国家へと変貌した。

 

 これをもってある人々は、日本は今でも立憲君主国であり、「天皇制民主主義」の国と呼んだのである。つまり見た目は君主国なのだが、内実は「民主主義」の国、要は入れ子構造の国なのである。

 

 しかし戦後日本の内実とは、そもそも軍事的な敗戦によって必然化された対米従属構造にある国家体制である。そしてその核心は国家と国民の象徴たる天皇の上にアメリカが位置する究極の対米従属の国家体制なのである。その本質はサンフランシスコ条約の批准後も変わっていない。

 

 誤解を避けるために正確に言い換ると、日本はアメリカの意向を忖度する対米従属下の自民党を与党とする政治勢力によって今なお支配され続けているとも言える。詳しくは白井聡氏の『国体論 菊と星条旗』を薦めたい。

 

 戦後日本が今でもアメリカの間接的な従属構造にあることは、日米地位協定上の正式な協議機関として日米合同委員会があることが証明している。その協議は月2回の秘密の会合であり、議事録も公開はない。

 

 会場は(ニュー山王ホテルで1回、外務省が設定した場所で1回)行われ、驚くことにこの会議に衆参両院の国会議員は一切参加していないのである。

 

 このことについては、かって総理大臣であった鳩山由紀夫氏の証言を紹介する。

 

「日本とアメリカの間には日米合同委員会など、いろいろなカラクリがあることは、首相になったあとに知ったことも多く、そのことは自分の不勉強でたいへん申し訳なかったと思っております。日本の官僚と米国、特に米軍が常に密接につながっていて、我々日本の政治家と官僚とのつながりよりも、むしろ濃いつながりを持っていることを首相になってから私は知りました」(『誰がこの国を動かしているのか』詩想社新書73頁)

 

 この「日本の官僚と米国、特に米軍が常に密接につながっていて、我々日本の政治家と官僚とのつながりよりも、むしろ濃いつながりを持っている」との鳩山氏の証言は、実に重い。

 

  それも首相になったから初めて知ったというのだから私たちも驚くではないか。

 

 この日米合同委員会の参加者は、日本側の代表は外務省北米局長で代表代理として法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米参事官、財務省大臣官房審議官からなり、その下に10省庁の代表からなる25の委員会が作られている。

 

 アメリカ側の代表は、在日米軍司令部副司令官で代表代理として駐日アメリカ合衆国大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海兵隊基地司令部参謀長からなる。

 

  つまりアメリカは軍人が中心なのである。

 

 一連の著作で米軍基地と原発を告発し続けている矢部宏治氏によると、この60年で最低でも1600回は行われているという。詳細は、吉田敏浩氏著『「日米合同委員会」の研究 謎の権力構造の正体に迫る』(創元社 2016年)に詳しい。

 

 この本については、私も読書室でも取り上げた(https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-12250446889.html)。また矢部宏治氏の最新の代表作 『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』を始めとする数々の著作についても「ワーカーズの直のブログ」で取り上げている。是非皆様の参照を賜りたいと考える。

 

 彼ら対米従属派のモットーは、アングロサクソンに従っておけば間違いないである。彼らは従米であればこそ、将来の日本の対米自立があると妄信している。為に日本の国家戦略とは、対米自立をめざす独自の国家戦略は持たずにすべてアメリカに付き従うことが基本なのである。

 

 それは、独自の国家戦略を持とうとした田中角栄氏や鳩山由紀夫氏のようにアメリカに潰されてしまうからだ。

 

 実際、戦後の対ソ連及び対ロシアの外交交渉が上手く進展しないのは、実にこのことが遠因である

 

 この従属国家体制の中で国策捜査の対象となり長期間拘留され有罪判決を受けた、元外務官僚の佐藤優氏は、戦後の国体をズバリ「日米安保体制下の象徴天皇制」とする。つまり白井聡氏が最近『国体論 菊と星条旗』で詳しく展開したように、これこそが戦後の日本の真の国体なのである。

 

 このことに関しては、豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』(岩波書店刊)に詳しい。この間の裕仁天皇の行動を理解するためにも、ぜひとも参照することを勧めたい。

 

 戦後の日本国憲法は、一方では日本近代社会を基礎づける基本的人権と義務の体系と議会等の任務とその選び方を規定はしたが、他方では第一章から第八章にまで、基本的人権すら認めず身分制に依拠した象徴天皇の地位に関わる諸規定を盛り込んだ、極めて纏まりの悪い憲法であった。

 

 戦後の日米安保体制を構築するあたり、裕仁天皇はアメリカへの服従を明確にした。それがマッカーサー元帥との会見である。それは1945年9月27日から1951年5月まで都合11回も行われた。それが『天皇・マッカーサー会見』として出版されている。

 

 この本の内容については、ワーカーズの直のブログ「昭和天皇の実像とは? 2015―02―17 読書室 豊下楢彦氏著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫」を是非参照していただきたい(https://ameblo.jp/bubblejumso3/entry-11990955744.html)。

 

 そしてこの間、1946年3月5日と6日に分かれ訪日した日本の教育の実態把握を目的とした日本教育使節団一行が皇居を表敬訪問した時、裕仁天皇はこの使節団に対して、何と当時学習院初等科に在籍していた皇太子(明仁天皇)にアメリカ人の家庭教師を付けたいのでお世話願いたいと要請したのであった。それは、まさに自らの政治的延命のためであった。

 

 古来から敗戦国の皇太子に戦勝国の家庭教師を付けるなどまさに前代未聞で、本来ならそれだけで外交問題にまで発展する問題ではあったが、そこは天皇自身の要請であるとだったが故に事は上手く運んだ。そして紹介されたのが絶対平和主義のクエーカー教徒のヴァイニング夫人である。彼女は皇太子に自分をジミーと呼ぶように強制した他、同じクラスの誰とも差別することなく平等に取り扱った。こうして明仁天皇は、少年時代にキリスト教育の洗礼を受けた。これが大きな伏線となっていったのである。

 

象徴とは何か

 

 アメリカは天皇を「日本国家」そして「日本国民統合の象徴」として戦後憲法に位置づけた。日米戦争前からアメリカは日本敗戦後の統治に天皇の利用を考えていたからだ(『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』)。そのため、開戦当初から皇居は注意深く戦略爆撃の対象外としていた。皇居が燃えたのは、アメリカも考えてもみなかった、皇居外苑周辺からの延焼であった。皇居へ爆弾投下する誤爆もまったくなかったことは注目に値する。そしてその後アメリカが考え抜き出された結論とは、日本の戦争遂行勢力と闘う平和天皇像の創出であった。つまりアメリカは天皇を平和のシンボルとして徹底的に利用する戦略を確定したのである。そのため、東京裁判では裕仁天皇は免責された。

 

 そもそも天皇をシンボルとする文献の登場は、1931年の新渡戸稲造国連事務局次長退任後の『日本――その問題と発展の諸問題』を嚆矢とし、1942年に出版されたニューヨーク・タイムズ東京特派員だったヒュー・バイアス氏の『敵国日本』にも天皇はシンボルと書かれていた。注目すべきはその後同氏が書いた『昭和帝国の暗殺政治』である。

 

 その核心部分を、以下に引用してみよう。

 

「日本の政治体制の弱点は、この体制がそもそも人間には両立し得ない複数の機能を天皇に兼任させようとする所にある。天皇は同時に国民の威厳ある統合の象徴であり、国の神であり、その大祭司であり、その最高司令官である」

 

 こうした指摘を受けて日米戦争中に天皇の取扱いを検討していた米国の陸軍省は、敗戦後の天皇を平和のシンボルとして徹底的に利用する、戦後の日本統治戦略を画策した。その流れでその実行の当否は日本現地に派遣されたマッカーサー元帥に一任されていた。裕仁天皇と面接した彼は、この天皇利用に大きく傾き動き出す。そして彼の決断がその後のアメリカの国家戦略となったのである。

 

 この戦略は日本人の間で大成功を収め、今では戦時中ですら、天皇は軍部とは対立し一貫して平和指向だったといまだに人々に信じられている。実際の所、軍事力の統帥権を唯一持っていた裕仁天皇の戦争責任が免責されることなど、本来的には絶対にあり得ないことである。

 

 アメリカは日米戦争の主体的な総括から、裕仁天皇にキリストのように死刑の厳罰を与えることはせず、裕仁天皇の戦後の政治的な統治行為を禁止して単なるお飾り・象徴として利用することに決定したのである。

 

 勿論、裕仁天皇はそんなことには一切顧慮せず、時には政府補無視して自らの考えで天皇外交を展開していったのである。

 

明仁天皇の「お気持ち」メッセージと新トマス主義

 

 さて2016年8月8日、明仁天皇はまるで裕仁天皇の「玉音放送」のような段取りで「お気持ち」メッセージのテレビ放映を行った。「生前譲位」の言葉こそなかったものの、その意図は明確であった。そしてそこで強調されたことは、象徴としての天皇の役割とは一体何かであった。明仁天皇が語った核心は、まさにこの点にこそある。

 

 宮内庁のように高齢になったのだから公務は減らせばよいとの判断に、明仁天皇は立たなかった。それだからこそ、そもそも象徴天皇の役割を果たすことが出来ないのだから譲位したいとの意向を示したのであった。それは実に明仁天皇の象徴天皇のサバイバル戦略である。それにしても神道の祭祀者が新トマス主義を持ち出すとは驚きでしかない。

 

 自民党や右翼の一部には、この時とばかりに今回の明仁天皇のメッセージに関連してその「公務」の恣意性を問題にしている向きもある。つまり災害被災地の慰問や戦没者の慰霊等が天皇にとってどれだけ立派な「公務」なのかという批判である。すなわち彼らからすれば最近天皇が慰霊を行ったペリリュー島やパラオ来訪時に海上保安庁の護衛艦を改造してまで使用したのは、無駄遣いだということなのである。

 

 実際にこの慰霊に同伴した閣僚はいないのだ。彼らの天皇に対する冷ややかなまなざしはまったく呆れるばかりだ。

 

 また被災地等を訪問して、避難者や戦没者の遺族と同じ目線に立ちたいとする明仁天皇の努力は、「憲法順守」「無私」だとの二点が従来から指摘されていた。今回の放送を通じて「国民と一体化する」という天皇個人の強い思いが、日本の人々の間に深く浸透していった。かくして明仁天皇の「美談」が、大きく喧伝されて天皇サバイバル戦略は成功したのである。

 

 宮内庁は仮に加齢や病によって寝た切りになった場合でも、摂政を立てたりメッセージを発したりすることで「象徴としての務めを果たす」ことが可能だと指摘し続けてきたが、明仁天皇は「そうではない、違う」と非常に強く反論、否定したことが好意的に伝えられたのである。このように多くの人は明仁天皇のサバイバル戦略の本質を見抜けないでいる。

 

 では二つの時代を生きた裕仁天皇に比べて、生まれながらの象徴天皇である明仁天皇が皇太子時代から真摯に考え続け、即位以来まさに「全身全霊」をもって考えた「象徴」としての天皇のあり方とは、どういうものなのか。またそれは昔とどのように違うのか。

 

 それには明仁天皇が少年期、裕仁の要請(どのくらい主体的なものであったかは不明)でGHQから推薦された絶対平和主義のクエーカー教徒のヴァイニング夫人から受けた絶対平和教育の影響、そして現在も深く関わっている相談役の影響が大きい。

 

 その人物からイギリスの立憲君主制での王室のあり方とキリスト教の倫理に学び、また加えて幼時からカトリックのミッションスクール(聖心女子学院)で学んだ美智子皇后の強い影響の下に、一段と磨きが掛けられたものである。

 

 つまり戦後の象徴天皇制の基礎は、国家神道とカトリック教との統合により成り立っているのである。

 

 このことに関しての重要人物がいる。その重要人物とは、東宮参与として天皇・皇太子に対する憲法及び象徴天皇制に関する相談役、後にカトリックに入信して何と「トマス・アクィナス」の洗礼名を持つ、團藤重光東京大学教授その人であり、彼の新トマス主義による天皇家への教育があることを忘れてはならない。

 

 ここで大きな影響力を行使したものこそ、裕仁天皇の時代から深い関係で続く「隠れたカトリック教徒の人脈」であった。今や宮内庁の職員には実に多くのカトリック教徒がいると噂されている状況である。

 

 そもそも日本カトリック教会の思想は、明治期に岩下壮一氏が基礎を据えたのであるが、この事実すら一般的にはあまりにも知られていない事実でなのある。

 

 これについては園田義明氏の『隠された皇室人脈: 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』(講談社+α新書)をぜひ参照のこと。

 

 旧安保条約に臣吉田茂と署名した吉田茂氏も明仁皇太子と正田美智子氏とを「テニスコートでの恋」を演出し娶せた慶応大学の小泉晋三氏もカトリック教の信者である。更に付け加えて置けば、常日頃は、まるで天皇崇拝者の如く振る舞っていた、あの渡部昇一氏も最近イエズス会員として死んでいった。現に彼が若年期にドイツに留学が出来たのも、そのことが理由であったのだ。

 

 ここで余談を一つ紹介したい。カトリック教といえば何と言ってもイエズス会である。戦国時代に訪日したフランシスコ・ザビエルについて、現代日本人は一体どの程度の知識があるのだろうか。まずは端的に紹介しておこう。

 

 16世紀初頭スペインの地方貴族の子として出生したザビエルは、その後神学校に進学しロヨラらとともにイエズス会を結成した。当初より世界宣教をめざしたイエズス会は、その会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ナンバー2であるザビエルはリスボンを出発、アフリカのモザンビークを経由してインドのゴアに到着。その後、マラッカ、さらにモルッカ諸島に赴き、宣教活動を続けてからマラッカに戻った。

 

 そして1548年にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌年、明の上川島(広東省江門市台山)を経由して薩摩半島の坊津に上陸、許しを得て8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは何と日本を聖母マリアに捧げたのである。

 

 この最後部分に注目せよ! ザビエルによって聖母マリアに捧げられた日本は、結局スペインに捧げられたということなのである。2年後の1551年、ザビエルは豊後国に到着し、守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った。

 

 戦国時代の流れの必然として軍事力の増強競争の中で、九州のキリシタン大名を中心にイエズス会は、日本で入手困難なチリ硝石の輸入に積極的に手を染め、硝石一樽当たり50人の女と交換したと伝えられる。この結果、16世紀後半には、日本人女奴隷がヨーロッパに広汎にいたのである。

 

 この事実は今でもほとんど伏せられたままだが、1582(天正10)年の天正遣欧少年使節の手記にははっきりと書かれていた。この文書を引用しこの事実を広汎に知らせた徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』の当該巻は発禁となり、私たちが現在読めるのはそれを削除した改訂版である。

 

 そして先の渡部昇一氏は、徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』を名著として絶賛していたにもかかわらず、この日本女奴隷の話には一切触れていない。なぜなら彼もイエズス会員だったからである。

 

 この余談は、マッカーサーがカトリック教徒であり、天皇に会ったことで彼が日本をカトリック国に生まれ変わらせたいとの野望を持ったことに関わっている。彼が野望を持つに至る経緯とその顛末については、鬼塚英明氏の出世作『天皇のロザリオ 上巻 日本キリスト教国化の策謀』『天皇のロザリオ 下巻 皇室に封印された聖書』に詳しい。

 

 閑暇休題。先に問題とした新トマス主義とは、EUの統合にあたって新旧両キリスト教圏にまたがる欧州を「成文法を超えて一体化させる」ものとして注目すべき重要な世界的思想で、それは旧約新約の両聖書を第一の規範とし、そのためにカトリックの規範を体系化し哲学化したトマス・アクィナスが、主著の『神学大全』で完成させた考え方でもある。

 

 中世においても哲学の基礎には、プラトンとアリストテレスにあった。プラトンを信仰の哲学とまとめれば、アリストテレスは知識の哲学とまとめることが出来る。トマスは、信仰と理性の融合をめざした。勿論、カトリックの原理とは神である。この原理に対してトマス・アクィナスは、アリストテレスの発展観を応用してカトリックの規範を体系化したのである。

 

 それは自然界を最も下級な段階として段々と発展してゆき、その頂点は人間の生活だとした。またトマスは万物と神との間の段階的な秩序を追求した。そして地上では人間が頂点であり、その人間の生活の頂点がカトリックによって与えられる恵みの下での生活、サクラメント(秘跡)であると考えたのである。まさに保守反動のカトリック教の極致ではある。

 

 つまりトマスは自然界の一切の事物を秩序ある世界と考え、それを上下の2つの世界に分けて神が上の世界は下の世界の目的であり、下の世界を完成させるものだとしたとする。この考え方を言い換えれば、秩序ある世界の現実の中に神の痕跡を見出したのである。

 

 こうした考え方の下にトマスは、法律を神の法・自然の法・人間の法とに3分割した。ここが味噌である。つまりパウロは世界を聖と俗とに2分割し聖なるものは、俗とは聖別されるべきで俗とは一切関わるなと分断したのだが、トマスは全てに神の痕跡を発見すべきだとする。

 

 また神の法の内に人間が理性で認識できる部分を、自然の法を名付けて導入した。この自然の法とは、民族・文化に関係なくどんな社会にも共通するものなのである。

 

 そして人間の法は、ある社会の支配者が制定した法である。法の内容は社会ごとに区々でも良いが、自然の法を踏まえなければならないとした。さもないとそれは暴君の法であり、内容から言って法と呼べないとした。この手順を踏むことで、トマス・アクィナスは、神の法の原理から人間の法が作られるとつなげたのだ。つまり神の法とは人間に対して超然としているものではなく、人間が現実の中にサクラメントで作り出すものなのである。

 

 こうして新トマス主義は、現代に復活し世界を秩序立て人間の生活を頂点とし、その恵みの生活は、教会から与えられるサクラメントにより与えられるものであるとする。

 

 現代に目を移してみよう。EUの心臓部は独仏両大国に挟まれたべネルクス、即ちべルギー・ルクセンブルクとオランダに集中するが、べルギーはカトリック、オランダとルクセンブルクはプロテスタントである。この両者はヨーロッパ、特にドイツを戦争の中心として30年間も闘っていた。そのため、ドイツは人口の3分の1を失っていた。

 

 ウエストファリア条約(1648年)は、このカトリックとプロテスタントによる宗教戦争に終止符を打った。条約締結国は「全ての人類がどこかの国民であり」、「国民はそれぞれの国家の枠内で権利と義務を持ち」、「全ての国家は対等の存在である」等、相互の領土を尊重し、かつ内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序を形成するに至った。これが近代国際法の枠組み、「ウェストファーレン体制」の秩序である。

 

 そして2回の世界大戦の深刻な反省に立って20世紀後半という半世紀を懸けて「欧州統合」を推し進めてきたEU中枢が共通の価値観を堅持している背骨は、新トマス主義にある。したがって私たちは、この現代世界を動かしている、この思想をしっきりと認識する必要があるのである。

 

明仁天皇の行動と思想

 

 これまでは天皇は皇祖皇宗に祈ることはあっても、憲法を順守して「国民のために天皇が祈る」という行動をどのように取ったらよいのか、どこにもそんなお手本はなかった。だから全身これ象徴の明仁天皇が、その妻の美智子皇后と相談或いは團藤教授らブレインのアドバイスを受け、先進各国の立憲君主たちの行動や道徳律を知り、そこで常に参照される新旧約聖書を始めとする聖典にも十分な配慮をもって、個々に検討し決意し現実に実行に移してきたのが「スリッパを履かない」であり、「膝を折って同じ目線で言葉に耳を傾ける」行動だった。

 

 こうした行動の一つひとつが「象徴天皇として国民のために祈る」こと、つまりこれこそがサクラメントそのものなのではないか、と明仁天皇は考えた。国民の中に病む人があれば、行って共に痛みを感じ分かち合い、国民の中に喜びがあるならそれもまた共に喜びを分かち合う。

 

 このように「その心に全身全霊を開く」ということが、皇太子時代から半世紀余、身をもって探究して、創造し実践してきた「象徴天皇の祈り」そのものであったのである。

 

 避難所でスリッパを進められても断り、靴下のまま被災者の下を訪れ膝を折って被災者と同じ目線で会話し「共に困難を共有したい」と明言される明仁天皇の発言と行動は、歴代天皇では初めてのことだ。

 

 それは皇太子時代に自ら創始され象徴天皇の執行するサクラメントとして、現在の徳仁天皇にも共有されている。この天皇のあざとさにはまさに注目である。

 

 メッセージの中で「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る」と明仁天皇は語っている。元よりこの台詞は天皇のサバイバル戦略なのである。

 

 その結果、明仁天皇が訪問した被災地で彼らを悪く言う風評は殆ど聞こえてこない。インターネットを見れば、世界の多くの人がこの行動に驚嘆し賞賛していることが確認出来る。既に2001年2月の天皇誕生日、明仁天皇はブレインの意向を受け入れ、日韓共催のワールドカップで祖先である桓武天皇の生母が、百済武寧王由来の血筋との故事を引き合い出し、「韓国との縁」に触れた。この発言は、当然のことながら韓国も大絶賛したのである。

 

 様々な負の歴史と今に続く永続的な朝鮮への差別を明仁天皇が知らないわけがない。歴史修正主義者の安倍総理のように国際社会に背を向け、独善的な「日本の伝統」を振り回すのではなく、内外の歴史と伝統に尊重と敬意を表しつつ、尚かつ「国家」「国民統合の象徴」として振る舞う明仁天皇の姿は、まさに安倍総理とは好対照と表現するの他はない。

 

 憲法「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。この規定を踏まえつつ、明仁天皇は「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、生き生きとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」とその秘めたる自信を披瀝して見せたのである。この立場は当然にも現天皇の徳仁にも引き継がれている。

 

 この明仁天皇のサバイバル戦略に籠絡される人々は、今でも大変多くて驚くほどである。今回の「お気持ち」発言にも高率の支持がある。私たちはこの部分に激しく反応し敢えて辛辣な批判を展開した辺見庸氏におおいに同意する(辺見庸のお気持ち表明批判)。まさに私たちに天皇という象徴などいらないのである。

 

象徴天皇制を支える組織

 

 象徴とは何か。象徴天皇制を人的に維持するための組織は大きく分ければ、3つある。

 まず宮内庁は合計で109人、内訳は特別職52人(1)国家公務員法で規定するもの。宮内庁長官,侍従長,東宮大夫,式部官長,侍従次長。(2)人事院規則で規定するもの。宮内庁長官秘書官,宮務主管,皇室医務主管,侍従,女官長,女官,侍医長,侍医,東宮侍従長,東宮侍従,東宮女官長,東宮女官,東宮侍医長,東宮侍医,宮務官,侍女長。一般職957人、内訳は宮内庁次長以下の内閣府事務官,内閣府技官などである。

 

 これに関連した宮内庁病院は医師・看護師は総勢約50名となっている。中には大学での勤務の傍ら、非常勤で診察に当たる医師もいる。病院長は宮内庁の皇室医務主管や侍従職の侍医長が兼務することが多いが、最近では専任者を置く例もある。

 

 玄関は皇室用と一般用に分かれている。一般用といっても宮内庁や皇宮警察の職員たち用である。1階中央には大きな吹き抜けがあり、階段手前から歯科、内科、耳鼻咽喉科、眼科などがある。2階には階段突き当たりに産婦人科、隣に外科、東側に一般患者用の病室、残り半分は皇室専用の病室「御料病室」が2つ配置されている。御料病室は、広さが約26平方メートル、トイレや浴室、洗面所を備えている。また廊下を挟んで侍従や女官の控え室もある。

 

 最後に皇宮警察は、皇居の内、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(東宮御所・各宮邸等)及び常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。

 

 東京以外では、京都府には京都御所・仙洞御所・京都大宮御所・桂離宮・修学院離宮及び正倉院の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸、栃木県の那須御用邸、御料牧場、静岡県の須崎御用邸、そして奈良県の正倉院には皇宮護衛官派出所が置かれている。

 

 また各署には消防車(「警防車」と呼称)が配備されており、皇居や御所の消防の業務を担っている。この他、皇宮護衛官の育成のための皇宮警察学校や皇宮警察音楽隊、皇宮警察特別警備隊などもある。

 

 2009年(平成21年)度に皇宮警察は、警務部長ポストを廃し「副本部長」を設置した。皇宮警察本部の定員は警察庁の定員に関する訓令により規定されており、皇宮護衛官920人、事務官等44人、計964人を擁している。なお比較のために人口57万人の治安を守る鳥取県警の職員数を紹介しておけば、何とたったの1170人である。

 

 つまり象徴天皇制の維持には、臨時職員を除けば定員数で何と2023人による支えが不可欠であることを、私たちは決して忘れてはならない。

 

 この認識が日本の人々にあるだろうか。更にまたこの人数と人件費及び建物・施設等に費やされる巨額の税金に思いを致さなければならない。このことを私たちが冷静に考えれば、生きた人間を天皇として、しかも象徴と祭り上げる、この日本社会の愚かしさが分かるというものである。

 

象徴天皇制の語られざる祭祀的側面

 

 戦前の天皇制と戦後の象徴天皇制との違いで、あまり語られていないことがある。それは天皇制の祭祀的側面である。戦前の天皇制と天皇が執り行う祭祀は、密接不可分の関係にあった。それが戦後の天皇制では、象徴天皇の私事に関わるものとみなされているのである。

 

 そもそも天皇は皇室では当然、明治以降の国家神道においては「最高の司祭」である。裕仁天皇自身が「非公式」と断わりつつも、戦後も「皇居の中で神道の祭典をやっている」と明確に認めている。つまり皇室内では日本国・国民統合の象徴である象徴天皇を頭とする宮内庁職員が〈祭政一致〉の政=祭りごとを、年中無休で励行している。

 

 要は戦後には天皇家の私事としての祭祀であっても、日本国及びその民の統合のための象徴天皇の立場から、この私事である神道行事を国民全員に対して独自(恣意・勝手)に宗教的に意味づけて執り行い、自分だけでなく宮内庁職員にも強制してきたのである。

 

 さらに「お気持ち」メッセージでは、昭和天皇の代替わりの時に起きた「自粛騒ぎ」との政治・社会問題、当時において一定の期間日本社会全般に対して「日常生活を停頓させていた〈困惑の事態〉」が、再発するようなことにならないようにと強く伝えようとした。そして更に明仁天皇は、できればそのための措置・対策を事前に講じてほしいと、率直に語っていた。しかし今後の祭祀については、どうなるかは明らかにされなかった。

 

 その改善を要する具体例として「殯り」があった。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっている。戦後においては裕仁天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている(但し太皇太后は現在の皇室典範にも定められているものの、実際には平安時代末期以降、現れていない)。

 

 つまり死後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。明仁天皇はこの祭祀が家族にとって大変厳しいと発言した。別の機会に明仁天皇は、火葬を希望するとも述べている。そうだとするとこの祭祀は、今後することができない。

 

 またよく知られている大嘗祭や新嘗祭を始め天皇家には執り行う数々の祭祀がある。これまたマイホーム主義者のように見られている徳仁天皇には、相当な重荷となるだろうことは想像に難くない。また徳仁天皇とカトリック教との関係はまったく明らかにされてはいない。だがこれらのことは、まさに祭司長としての象徴天皇の危機である。

 

 ここでまた余談を一つ。天皇家の紋は菊の紋である。海外旅行に行く人々は、日本国のパスポートの表紙に日の丸ではなく、菊の紋があることを承知しているだろう。なぜ菊の紋なのか? 在外日本公館や靖国神社の門にもすべてに菊の紋がある。菊の紋と日の丸の関係はいかなるものか? 菊の紋と日の丸との関係、天皇家と国体とは一体どのような関係にあるのか? 法務省の見解は、天皇は日本国の象徴であるから菊の紋は、国の紋でもあるという屁理屈である。確かにそのような類推はできるが、それは何時、一体誰が決めたのだろうか。

 

 この論法でこの事態(現状)を論ずれば、憲法が規定した「政教分離」どころではなく、まさに〈現実〉には祭政一致を国民側に対して実質「強要している」ことなのである。

 

 これに関わって靖国神社参拝がある。A級戦犯が合祀されてからの裕仁天皇と明仁天皇が靖国参拝を現在拒否している理由を、私たちは明確に認識する必要がある。では国家的な神道神社の「最高の司祭(親裁者)」として、裕仁天皇はそこで何を祈ってきたのか?

 

 それは自分=天皇のために戦争に動員され、死んで靖国に合祀される運命に追い込んだ、アジア・太平洋〔大東亜〕戦争にだけ限ってもその数三百十万にもなる民草=〈英霊〉に対して、つまりかつての帝国の臣民たちにもたらした「多量死」を「悲しいけれど現実として受容させる」ためである。この裕仁天皇の認識は、民草の物とは全くかけ離れている。

 

 元々この靖国神社の役割は天皇が戦没者(の死という事実)に陳謝・謝罪するために存在したではなく、どこまでも戦争勝利のために「死者を活かそうとする」国家側が戦争犠牲者を取り上げて「慰霊する」神社であった。つまりあの戦争で「朕だけが生き残って申しわけなかった」という陳謝でも謝罪でもない。靖国神社の参拝において裕仁天皇がこの種の陳謝や謝罪をしたら、靖国の靖国たる所以、その存在価値は一気に瓦解するのである。

 

 したがってA級戦犯の処刑は連合軍が勝手に裁いて出した判決に拠るものではあっても、昭和天皇もその結果を受け入れていた故に、このA級戦犯が1978年10月、靖国神社に合祀された事実は、昭和天皇にとっては大きな衝撃となった。敗戦後にまで生き延びてきた彼の存在理由がその合祀によって全面的に否定される〈靖国神社的な歴史の事情〉が突如、目前に登場したからである。

 

 だからA級戦犯の合祀は、裕仁天皇にとって「本来的に発揮すべき靖国の宗教的機能」が破壊されることを意味したのである。この因果のめぐり合わせは裕仁天皇自身が一番よく理解している。私たちもA級戦犯の合祀に激怒した意味とその論理が実によく分かる。

 

 このように天皇は現在でも祭祀を行っている。それも天皇家の私事として行っているが故に、日本国民には決して充分にはその祭祀の全貌が認識されてはいないのである。

 

すべての矛盾は人間天皇を象徴として日本国憲法に書き込んだことが原因である

 

 すべては人間天皇を象徴として日本国憲法に書き込んだことが原因である。シンボルが単なる旗ならば、古くなれば捨てて新しいものを準備すれば済むことである。シンボルは天皇だというのなら、まずその天皇を支える組織を作っていなければならない。また本来であれば、そもそも現憲法に定めてある基本的人権を人間天皇にも保証しなければならない。保証しないのであれば門地云々の廃止・全ての人間は平等であるとの規定は、天皇を除外した時点で全く意味をなさないものに転化する。

 

 既に多くの人々は、天皇にもそれなりに人権があるものと考えているようだ。しかし実際のところ、天皇及び皇族には一切の人権は勿論のこと、選挙権、また職業選択の自由と移転・居住の自由すらもないのである。

 

 かくして私たちは、今後の象徴天皇制に対する基本的態度をしっかりと確定することができる。

 

 それは象徴天皇制を廃止することである。そして象徴天皇等にも基本的人権を認め、姓を認めて職業選択の自由と移転・居住の自由を保障して、彼らの幸福追求権を認めることである。したがってまた日本国家とは切り離した上で神道の祭司長としては、勿論私事としてその就任を認めるが、当然ながら国庫補助は廃止して、運営のすべては本人のまさに自由意思に委ねられるべきである。

 

 その際、このことに関わって明治以来現在に至るまで、手厚く天皇と皇族を守ってきた皇室経済法の廃止と皇室費・宮内庁費と皇宮警察費の予算廃止に向けて徹底的に論議すべきである(皇族離脱と皇室経済法―象徴天皇制の銭金の面)(小室氏との「納采の儀」についての秋篠宮発言に寄せて―皇族離脱と皇室経済法―)。