見逃された日本共産党の改革の機会とは? | ワーカーズの直のブログ

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見逃された改革の機会――『さざ波通信』25周年に寄せて

February 10, 2024

 

テーマ:さざ波通信

きょう

われわれが『さざ波通信』を立ち上げたのは、当時の共産党指導部(不破指導部)が、社会党の崩壊の結果として生じた一時的な議席増大に目がくらんで、安保問題の棚上げ(凍結)を条件として野党連合政権構想を打ち出したことに大きな危機感を覚えたからだった。われわれはそのような野党連合など成立する見込みなどないと正しく情勢判断していたが、野党連合政権に何としてでも入ろうとする不破指導部のこの姿勢が、かつての社会党の没落と同じ道を歩む徴候をはっきりと示すものであり、今ここで声を挙げなければ、共産党の変質がいっそう進むだろうと考えた。

 

われわれの予想は正しかった。野党連合政権構想はあっという間に頓挫したが、安保凍結を前提にした野党連合政権構想はその後も、その後の共産党の路線に一つの明確な方向性を示すものとして、いわば生き続け、発展し続けたのである。野党連合政権に入るために必要な共産党側の譲歩はその後ますます拡大していった。たとえば、その後、もう一度野党連合政権の機運が高まったときに、志位委員長(当時)が、政権の一翼を担うかぎりでは安保や自衛隊も認める用意があると述べたことはその典型例である。

 

1999年に『さざ波通信』を開始したわれわれは、共産党の綱領や規約が基本的に改良主義的なものに変えられた2004年をもって、『さざ波通信』の活動を停止した。しかし、5年間というこのわずかな期間に発表した多くの論稿は、今でも十分に政治的価値があると思っている。今から見ても、基本的な点で誤ったと言えるものは存在しないとわれわれは考えている。

 

現在、『さざ波通信』は20年ぶりにコラムとして復活したが、状況はその時よりもいっそう深刻なものになっている。この25年間に容赦なく進んだ党員の高齢化と亡くなる党員の激増、国民の政治離れと新聞離れという不可避な状況は別にしても、以下の深刻な問題を指摘しないわけにはいかない。

 

まず第1に、インターネットの大規模な発達は、Twitter(今はX)やFacebookという日常的な意見表明の巨大なプラットフォームをつくり出し、それは、ブログなどと比べてはるかに手ごろかつ自由に、党員や地方議員や支持者が自分の意見を表明する手段を与えた。それはもろ刃の剣である。一方ではそれは、共産党の党内統制を緩める方向に作用した。何十万人、何百万人もの人々が日常的に見るプラットフォームにおいて、個々の党員や地方議員の言動を統制することなど、ほとんど不可能だからである。

 

しかし、この1、2年の動きは、このような状況をも何とかして統制しようとする党指導部の意志をはっきりと示すものとなっている。結局は失敗すると思うが、それでも党指導部は、SNSにおける個々の党員や地方議員の発言を統制しようとしている。支持者を含む膨大な人々が見ている前でのこのような行為は、共産党のイメージをいっそう毀損することになるだろう。

 

他方では、SNSの発達は、国内世論のごく一部しか反映していない囲い込まれたネット世論の動向に党指導部が右往左往する事態を生み出している。「フォロワー」や「友達」というシステムを通じて囲い込まれ、「ブロック」や「ミュート」を通じて取捨選択された「世論」は、実際には、自分が見たい意見の集合体にすぎず、そこでの盛り上がりを世間での盛り上がりと勘違いしたり、あるいは、そこで発せられるごく一部の人々の強い意見からダイレクトに影響されたりしている。

 

そうしたエコーチェンバーにおいては、往々にして、バランスの取れた意見よりも、極端な意見が目につきやすく、「いいね」を通じて流布されやすい。それは、世論全体の動向の真剣な社会的・政治的分析をなおざりにさせ、世論をしばしば見誤る結果をすでに生み出している。

 

第2に、現在、党内の異論派および党から除名された人々の立場は、われわれ『さざ波通信』の立場とは違い、基本的に右からの改革論である。不破=志位路線をより純化させ、より徹底させて、野党連合政権の一翼を担うために、いっそうはっきりと安保・自衛隊政策を棚上げしよう、ないしより大胆に後退させようとするものである。そのような路線がかつての社会党の轍を踏むことになるのは明らかであろう。現在の改革派がこの政治的教訓を何ら学んでいないのは驚くべきことである。

 

われわれはたとえ意見が異なっていても、これらの改革派の人々に対する弾圧や誹謗中傷、排除には断固反対する。われわれは、党内で、真摯に意見を戦わせることのできる政治的プラットフォームを作るべきであると考える。

 

第3に、マルクス主義の古典(マルクス、エンゲルスからレーニンまで)を真剣に学び、厳しい労働運動や激しい学生運動を経験し、それなりに高い素養と広い視野を身に着けていた古い世代が高齢化し、どんどん鬼籍に入るか、あるいは共産党に愛想をつかしてやめていった(あるいは除籍された)。他方で、独習指定文献廃止後に党に入った若い世代は、そもそもマルクス主義の古典をほとんど学びさえしない。彼らは、最初から水で薄められた不破哲三や志位和夫の文献を読むだけで、「科学的社会主義」を学んだ気になっている(それらさえ読んでいない若い活動家も大勢いるだろう)。

 

共産党のマルクス主義的性格がほとんど希釈化し、同党は単なる社会リベラル政党になりつつある。もちろん、旧来のマルクス主義に多くの問題点、偏狭さ、機械主義があったのは言うまでもない。それらは批判され、克服されるべきである。だがそのためにはそもそも必要な古典を学んでおく必要があるのだ。それさえそもそも学んでいない20代、30代の若い党員たちには、科学的社会主義の創造的発展など不可能だろう。彼らは、「差別反対」という単純な政治道徳と視野の狭い経験主義とを指針にするしかない。

 

第4に、現指導部は、事態を政治的に打開する展望を何一つ持っておらず、すでに1980年代にさんざんやって失敗した機械的な組織拡大路線に回帰している。「空白の90年代」という言い方がなされているが、それは1980年代におけるあまりに過酷な拡大一辺倒の路線が破綻した結果なのであって、息をつく暇を与えた90年代があったからこそむしろ、共産党の組織は今でもなんとか保っているのである。しかし、指導部はこの歴史を意識的に隠ぺいし、また、そのような歴史的過去のいきさつさえ知らない現在の中堅・若手部分は歴史修正主義的な総括を機械的に受け入れている。

 

高齢者がほとんどである現在の党にはこのような組織拡大が不可能であるだけでなく、機械的な組織拡大路線は、たとえ部分的に成功したとしても、ますますもって、科学的社会主義も共産党の歴史もほとんど知らない人々を党内に迎え入れて、党そのものをいっそう変質させ希釈させるだけだろう。

 

以上見たように、状況は、われわれが『さざ波通信』をやっていたころよりもはるかに深刻である。この事態の深刻さは、ますますもって、共産党の改革の必要性を要請するものであるが、しかし、物事には何でもタイミングというものがある。党内改革の絶好のタイミングはまさに、われわれが『さざ波通信』を始めた25年前の1999年であった。

 

その時、共産党は得票と議席を連続して伸ばし、上げ潮にあった。マルクス主義を真面目に学び、1960年代から70年代初頭の革新高揚期を知っている世代の党員がまだ大多数を占めていた。党の高齢化は始まりつつあったが、それでも、大多数は50代前半以下だった。最も分厚い世代であるいわゆる団塊世代の党員は、1999年段階で49~53歳でまだまだ働き盛りであった。

 

この時こそが改革のチャンスだった。われわれは、仲間たちとともに『さざ波通信』を開始することで、われわれにできる最大限のことをやった。しかし、党内で決定的な力を持っていた団塊世代の党員、とりわけ高い名声を持っていた学者党員は誰一人動かなかった。彼らは党内での安定した地位を守ることに汲々とし、改革の絶好の機会をみすみす見過ごした。

 

彼らの政治的臆病さと先見の明のなさこそが、25年経っても党改革がまるで進んでいない今日の事態をもたらした大きな原因の一つである。現在、第2の改革の機運が高まっているが(だからこそ、『さざ波通信』も復活したのだが)、それでもなおこの世代の党員は動こうとしない(ちなみに、現在、いちばんの渦中にある松竹伸幸氏は1955年生まれだから、団塊世代の次の世代である)。

 

共産党は、先の党大会で、党史上初めて女性を委員長に据えたが、志位和夫はそのまま議長に横滑りし、党の実権をかけらも手放していないし、手放すつもりもない。宮本顕治が議長に退いて不破哲三が委員長になった時よりも、あるいは、不破哲三が議長に退いて志位和夫が委員長になった時よりも、はるかに志位議長の実権は強力である。なぜか? 

 

不破や志位は委員長に就任する前から書記局長として指導的役割を担い続け、大会や党会議や委員長会議などの各種会議での報告をしばしば受け持ち、指導者としての訓練を積んだうえで委員長になったのに対し、田村智子はそのような前段階なしに、世間体のために、いきなり委員長に抜擢されたからである。彼女は、指導者としての訓練をほとんどないしまったく経ていない。田村智子は、志位やその他の指導者から与えられた文書を読むだけの委員長になるだろう。

 

なぜこうなったのか? それは、宮本顕治が意識的に採用してきた指導者育成メソッド、指導者の継承方法を不破哲三も志位和夫も無視したからである。宮本は、書記局長に、若いが理論的能力のある優れた活動家であった人物(不破哲三)を大抜擢し、しだいに育てることで、時期世代の指導者に据えるという戦略を取っていた。

 

宮本が議長に退き、書記局長だった不破を委員長にした後は、空白になった書記局長に若い志位和夫を大抜擢した。しかし、不破も志位もこの路線を踏襲せず、書記局長に、委員長である志位和夫と年齢がほとんど変わらない党官僚を登用し続けた。そうなってしまったのは、不破自身が、宮本と違って、若い理論幹部を育成するということをそもそもやっていなかったからである。若い理論幹部がそもそもいないので、書記局長に抜擢すべき人材がいないのだ。そのため、志位和夫が委員長を20年以上もずっと続けざるをえなくなった。

 

これは志位が委員長職を独占したかったからというよりも、若い理論幹部を育てていないという不破=志位路線の必然的な帰結である。しかし、この数年で大きな批判が高まって、ついに委員長を形式上、志位以外の誰かに任せる必要が生じたとき、あまり年齢の変わらない小池晃(志位の6歳下)を抜擢するわけにもいかず、やむなく、女性であるということで新鮮に映るであろうと思われた田村智子に白羽の矢が立ったのである。

 

しかし、自ら指導的役割を果たす技量のない彼女は、党官僚たちによって決められた大会結語を力みながら読み上げ、大会でささやかな異論を述べた発言者を厳しく糾弾する役回りを担わされた。これは、初の女性委員長として歓迎ムードになるべきところにいきなり冷水をぶっかけるものだった。

 

こうして、出足からつまずいたこの新しい指導部は、前指導部よりもいっそう厳しい状況のもとで船出することになった。この新指導部のもとで何らかの積極的な改革が起こることはまずないだろうし、行き詰まりを打破するような新機軸が打ち出されることもないだろう。

 

このように、状況は25年前よりはるかに厳しいが、絶望するべきではない。危機は同時にチャンスでもあるというのは、よく言われることだ。われわれはけっしてこのチャンスを大げさにとらえることはしないが、それでも改革の機運が一定高まっていることはチャンスでもある。われわれは少なくともこの機会に、党内において自由に異論を述べ、党員同士で意見を戦わせることのできるプラットフォームをつくるよう党指導部に求めるべきだろう。

 

インターネットが発達した今日、党のサイトの一部にそのようなコーナーを設けることほど簡単なことはあるまい。「民主集中制の真価が発揮された」と本当に言いたいのであれば、せめてそれぐらいは認めるべきだろう。

 

――S・T(旧編集者)2024/2/10