国家神道の全国の神社が、靖国神社とともに皇民化政策の柱! | ワーカーズの直のブログ

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神社と戦争・植民地支配―「沖縄」「朝鮮」

アリの一言 2024年01月26日 | 天皇制と戦争・植民地支配

 

  

 

陸上自衛隊の小林弘樹幕僚副長ら数十人が1月9日に靖国神社を集団参拝していたことが問題になりましたが(13日のブログ参照)、その翌日の10日、陸自宮古島駐屯地トップの比嘉隼人宮古警備隊長ら幹部隊員約20人が制服、公用車で宮古神社(写真左)に集団参拝したことが判明しました。「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」が20日記者会見で明らかにし、抗議声明を読み上げました(写真中=沖縄タイムスより)。

 

抗議声明が指摘している通り、比嘉氏らの「宮古神社参拝」は、小林氏らの「靖国神社参拝」同様、防衛省の事務次官通達(1974年)に違反していることは明白です。

 

しかし、相次ぐ自衛隊幹部らの神社集団参拝は、省内の通達に違反しているかどうかではなく、その危険な意味にこそ目を向ける必要があります。

 

宮古神社は、「神社本庁包括下の神社」(宮古神社公式サイト)です。そして、「神社本庁は皇祖神天照大神を祭神とする伊勢神宮を中心に全神社が結集するという基本方針のもとに構想された…いわば「組織としての国家神道」の存続という側面を有している」(『岩波 天皇・皇室辞典』)組織です。すなわち宮古神社は、伊勢神宮を頂点とする国家神道の末端神社です。

 

国家神道の全国の神社が、靖国神社とともに、皇民化政策の柱となり、侵略戦争・植民地支配の強力なツールとなったことは周知の歴史的事実です。

 

沖縄ももちろん例外ではありませんでした。焼失した首里城の再建にあたって、正殿前の大龍柱が正面向きか相対かが問題になっていますが、その発端は、ヤマトの天皇制政府が1933年(満州侵略の2年後)に、首里城正殿を「沖縄神社」の拝殿としたことです(写真右)。それまで正面向きだった大龍柱を天皇制政府は日本の神社に合わせて相対にしたのです(2020年10月24日のブログ参照)。

 

皇民化政策のツールとしての神社の役割は、植民地・朝鮮においていっそう顕著でした。

 

「朝鮮では1936年3月、南次郎・陸軍大将が朝鮮総督に就任…この総督の下では「内鮮一体」(「内」は「内地」のこと、「鮮」は朝鮮をあなどってこう呼んだのです)が提唱され、朝鮮人に宮城遥拝、神社参拝を強制し、一つの面(面は日本の村にあたります)に一つの神社を設置することが目標とされました」(中塚明著『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』増補改訂版・高文研2022年、カッコ内も)

 

「朝鮮総督府は「日本精神」強化のために神社参拝を強要…すでに日本は三・一独立運動後の1925年に、現在のソウル南山に天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神宮」を竣工していましたが…1939年に…「内鮮一体」のシンボルとして「扶余神社」を創立します。こうして朝鮮全土に神社がつくられると同時に、各家庭にも「神棚」をまつらせました」(尹健次著『もっと知ろう朝鮮』岩波ジュニア新書2001年)

 

神社は皇民化政策・侵略戦争・植民地支配と切っても切れない関係にあります。

その神社に自衛隊(軍隊)の幹部らが制服と公用車で相次いで集団参拝した。それが靖国神社と沖縄の宮古神社だった―このことは、日本の戦争国家化がいかに危険な段階にきているかを示すとともに、沖縄がその最前線に立たされていることをものがたるものにほかなりません。