オーストラリアは米英の植民地にすぎないが、では日本はどうなのか? | ワーカーズの直のブログ

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櫻井ジャーナル 2023.04.05 自国が米英の植民地にすぎないことを世界に示したオーストラリア政府

  

アッサンジと豪政府

オーストラリアのアンソニー・アルバニージ―首相は3月13日にアメリカのジョー・バイデン大統領とカリフォルニア州サン・ディエゴで会談​、AUKUSやQuadについて話し合ったようだ。

 

この訪問について​緑の党のデイビッド・シューブリッジ上院議員は議場でペニー・ウォン外相に対し、アルバニージ―首相がバイデン大統領にジュリアン・アッサンジの問題を質問したかと尋ねた​。

 

アッサンジはオーストラリア人で、ウィキリークスの象徴として内部告発を支援する活動をしていた。世界を支配するために反民主主義的なことを行ってきたアメリカの支配層にとっても目障りな存在だが、そのアッサンジをイギリスのロンドン警視庁は2019年4月11日、エクアドル大使館の中で逮捕、イギリス版グアンタナモ刑務所と言われているベルマーシュ刑務所で拘束。ウェストミンスター治安判事裁判所は2022年4月20日、アッサンジをアメリカへ引き渡すように命じた。

 

ヨーロッパを活動拠点にしてきたオーストラリア人をアメリカ政府はイギリスに逮捕させ、自国へ引き渡させようとしている。その命令にイギリスは従っている。

 

アメリカの当局はアッサンジをハッキングのほか「1917年スパイ活動法」で起訴している。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ハッキング容疑はでっち上げだ。アッサンジがアメリカへ引き渡された場合、懲役175年が言い渡される可能性がある。

 

こうしたアメリカの「法手続き」にウォン外相は介入できないと答弁したが、外国の法手続きに介入し、拘束されたオーストラリア人を解放させた前例は複数存在する。アッサンジの場合、アメリカで逮捕されたわけではなく、イギリスも同罪だ。

 

軍事同盟

アメリカ、イギリス、オーストラリアはAUKUSを組織している。これはインド・太平洋地域をカバーする軍事同盟で、2021年9月の創設が発表された。

その際、アメリカとイギリスはオーストラリアに原子力潜水艦の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられた。ジョー・バイデン米大統領はオーストラリアへ売却する3隻のバージニア級原子力潜水艦を2030年代の初めに建造すると語っている。

 

その潜水艦を動かすためにはアメリカの軍人が乗り込む必要があり、事実上、アメリカ海軍の潜水艦になる。山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで2022年11月14日、日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明した。

 

アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ変更、インド洋から太平洋にかけての海域を一体として扱うことを示した。太平洋側の拠点を日本、インド洋側の拠点をインド、そしてインドネシアで領海域をつなごうという構想で、中国が進めている一帯一路政策のうち、いわゆる「海のシルクロード」を意識しているだろう。この戦略とAUKUSは密接に結びついている。

 

米英金融資本

金融の世界を見ると、アメリカとイギリスは一心同体の関係にある。歴史を振り返ると、アメリカの金融はJPモルガンが中心的な存在、イギリスではロスチャイルドが中心的な存在だが、両者はつがなっているのだ。

 

19世紀の中頃、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンでジョージー・ピーボディーと銀行を経営していたのだが、1857年にその銀行の業績が悪化、倒産寸前になる。そのときにピーボディーと親しかったロスチャイルド一族が救いの手を差し伸べている。

 

ピーボディーは1864年に引退し、ジュニアスが引き継ぐ。ロスチャイルドはジュニアスの息子であるジョン・ピアポント・モルガンに目をつけ、ロスチャイルド系金融機関のアメリカにおける代理人に据えるが、この人物がモルガン財閥の祖と言われている。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 

1837年から1901年にかけて、イギリスを統治していたのはビクトリア女王。1840年にザクセン-コーブルク-ゴータのアルベルトと結婚すると、この夫が助言者になるが、1861年に42歳で死亡してしまう。1890年代からはネイサン・ロスチャイルド(ロスチャイルド男爵)、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらが助言者になった。

 

ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出し、大儲けした人物。1877年に書いた「信仰告白」の中で、アングロ・サクソンを世界で最も高貴な人種だと表現、その人種が支配地域を広げることは義務だと考えていた。要するに、優生学の信奉者だ。

 

彼らは世界を支配するため、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという戦略を立てた。その戦略をまとめたのが地理学者ハルフォード・マッキンダー。1904年に「歴史における地理的要件」というタイトルでプランを発表している。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もマッキンダーの理論に基づく。

 

イギリスがインドを植民地にしたのは1757年にプラッシーの戦いで東インド会社が勝利してからだが、その前から東南アジア侵略は行われている。日本では15世紀から16世紀にかけての戦国時代、敗者は殺されるだけでなく奴隷として売買されていた。その一部は国外へ売られ、若い男は戦闘奴隷になっている。その戦闘奴隷をヨーロッパ諸国は傭兵として使っていた。

 

豊臣秀吉は1592年と96年に朝鮮半島を軍事侵略している。いわゆる「文禄の役」と「慶長の役」だが、その際、豊臣軍が朝鮮半島で行ったこと、つまり殺戮、略奪、拉致などは戦国時代の日本列島で行われていたことだ。

 

米英の戦闘奴隷

そうした歴史のある日本を19世紀のイギリスは目をつけた。イギリスは経済力では太刀打ちできない中国(清)から富を奪うため、アヘンを売りつけたのだ。麻薬取引を清が取り締まるとイギリスは戦争を仕掛ける。1840年から42年にかけての「アヘン戦争」と56年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」だ。

 

戦争でイギリスは勝利したものの、征服できない。戦力が足りなかったからだ。そこで目をつけたのが日本だ。彼らは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒し、明治体制を樹立させた。いわゆる明治維新だ。

 

明治維新で暗躍したトーマス・グラバーは1859年、ジャーディン・マセソンのエージェントとしてウィリアム・ケズウィックと共に来日している。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉である。

 

ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 

グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 

明治政権は琉球を併合した後、1874年5月に台湾へ軍事侵攻、75年9月に李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。

 

1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)で体制が揺らぐと日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながった。

 

この戦争で勝利した日本はロシアへ接近することが予想された閔妃を1895年に暗殺する。三浦梧楼公使の下、日本の官憲と「大陸浪人」をが宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害したのだが、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 

閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万人の兵を派遣。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 

イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたジェイコブ・シッフはクーン・ローブを経営していた人物。

 

クーン・ローブはドイツ系移民、アブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立した金融機関だが、その経営を任されたジェイコブ・シッフはロスチャイルド家に近かった。ポール・ウォーバーグとフェリックス・ウォーバーグはシッフの甥にあたる。またシッフはジョン・ロックフェラーの会社、スタンダード石油の金融戦略を担当していた。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 

1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のテディ・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印されて日本の大陸における基盤ができた。

 

この条約は韓国における日本の優先的な地位を認め、旅順や大連の租借権や長南と旅順口との間の鉄道の経営権を日本に譲り、サハリンの南半分を日本に割譲し、沿海州やカムチャツカの漁業権を日本に譲渡する等々を定めている。賠償金の支払いは認められていない。

 

講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄される。日露戦争で獲得した利権をアメリカに取られると主張したのだが、桂首相は利権をアメリカへ渡したかったのだろう。

 

この当時、日本にはテディ・ルーズベルトと親しい人物がいた。金子堅太郎だ。ふたりともハーバード大学で学んでいる。そのふたりを何者かが引き合わせたのだ。

 

日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語った。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。日本の韓国併合はアメリカの戦略でもあった。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 

1923年に起こった関東大震災の復興資金調達が切っ掛けになって日本はウォール街、特にJPモルガンの影響下に入る。そのJPモルガンは1932年にジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んできた。

 

1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選している。この結果を憂慮したウォール街の大物たちがファシズム体制の樹立を目指してクーデターを計画したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。このクーデターを潰したのが伝説的な軍人であるアメリカ海兵隊のスメドリー・バトラーだ。

 

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らと親しかったが、その中でも特に緊密だったのは松岡洋右だという。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる人物だ。

 

1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入する。翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 

植民地

オーストラリアは1770年にイギリス人のジェームズ・クックがオーストラリアに上陸、勝手に領有を宣言して以来、イギリスの植民地だったが、1901年にイギリスの自治領になる。現在の元首はイギリス国王のチャールズ3世で、デイビッド・ハーレーが連邦総督を務めている。

 

オーストラリアが米英の植民地だということを示す出来事が1975年にあった。当時の首相、ゴフ・ホイットラムがイギリス女王エリザベス2世の総督だったジョン・カーに解任されたのだ。

 

ホイットラムは1972年12月の総選挙で勝利して首相に就任すると、自国の対外情報機関ASISに対してCIAとの協力関係を断つように命令、アメリカの情報機関は危機感を募らせる。

 

イギリスのジャーナリスト、デイビッド・レイによると、ウイットラムはチリのクーデターに関する情報を入手、チリでASISがCIAと共同でサルバドール・アジェンデ政権を崩壊させる工作を実行していたことを知っていたという。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988)

 

また、オーストラリアのパイン・ギャップにはCIAの通信傍受施設があるのだが、その使用期限が迫っていたこともアメリカ側を懸念させていた。

 

この施設は1966年12月に結ばれた秘密協定に基づいて建設されたもので、協定の有効期限は10年。1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならない。ホイットラムが更新を拒否することをアメリカ側は懸念していた。

 

そこでCIAは1975年11月、ジョン・カーにホイットラム首相を解任させたのだ。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できなかった。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。

 

アメリカのジャーナリスト、ジョナサン・ウイットニーによるとカーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987)