読書室
斎藤幸平氏著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』(角川文庫)2022年10月刊
○従来からマルクスの思想に対しては「エコロジーはマルクス主義の盲点」であるとの批判、またそもそも「マルクスの思想は、ジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との批判があった。
それらの批判によると、マルクスの思想とは極端な生産力至上主義であり、あらゆる自然的限界を突破し世界全体を恣意的に操ることをめざす近代主義に本質があるとする。要するにマルクスの思想はもう古いというのである!
だが実際のマルクスは人間と自然との物質代謝を重視し、資本主義的生産・資本の蓄積が人間と自然の関係性をどのように歪め、両者の持続可能性の条件をいかに破壊していくのかについて詳細に分析していたのだ。その鍵となる概念が「物質代謝の亀裂」である。
本書の親本は、斎藤氏の処女作である。斎藤氏は、マルクスのエコロジー論こそその経済学批判において体系的・包括的に論じられた重要なテーマであると論証し、今このマルクスのエコロジー論こそが現代の資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論だと提起した。そして単行本刊行から3年後、この廉価な文庫本が刊行されたのである○
『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』の構成
今回の文庫本の親本となる単行本は、2014年12月、フンボルト大学に提出された斎藤幸平氏の博士論文とその英語版(第1章から第3章まで)を下敷きにし、その後日本で発表された諸論文(第4章から第7章まで)を加えたもの、つまり日本の読者に合わせ加筆・修正を行った日本語オリジナル版であり、実に日本語でしか読めない決定版である。
今回、単行本の半値となる文庫本は、これをさらに訂正・修正したものである。それ故、読者にとって廉価な文庫本の形で手に入るようになったのは、実に喜ばしいことである。
そして親本となった英語版の表題は『マルクスとエコ社会主義』である。この本は高い評価を受け、マルクス生誕200年の2018年度ドイッチャー記念賞を受けた。受賞は、日本人では初の、さらにまたドイッチャー記念賞を受賞史上最年少の受賞で、本書がまさに大変に優れた、真剣に学ぶに値する著作であることの証明であるといえよう。
現在の時点で、9ケ国で翻訳され出版されているとのこと。さらに今回の文庫本の、「亀裂はどこに? マルクス、ラカン、資本主義、そしてエコロジー」と題する解説は、『ポストモダンの共産主義』で知られるスラヴォイ・ジジェクが書いていることを特記したい。
本書は、マルクスの物質代謝の亀裂論をマルクスのテキストに立ち返り、従来より体系的でより包括的な形で、マルクスのエコロジカルな資本論批判を再構成したものである。
それでは早速3部に分かれている本書の構成を、以下に簡潔に紹介しておこう。
第1部は経済学批判とエコロジー、となっている。第1章は労働の疎外から自然の疎外へ、第2章は物質代謝論の系譜学、と表題つけされている。
第2部は『資本論』と物質代謝の亀裂、となっている。第3章は物質代謝論としての『資本論』、第4章は近代農業批判と抜粋ノート、と表題つけされている。
第3部は晩期マルクスの物質代謝論へ、となっている。第5章はエコロジーノートと物質代謝論の新地平、第6章は利潤、弾力性、自然、第7章はマルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー、と表題つけされている。
そしておわりにでは、マルクスへ帰れと結ばれているのである。
本書の第1章から第3章までの短評
では、本書の第1章から第3章に、評価の要となる私の短評を加えておこう。
第1章では、まず斎藤氏は1844年の『パリ・ノート』を使って、若きマルクスは人間と自然の関係の歪みとその矯正に関して、フォイエルバッハの影響の下、疎外論の観点から人間主義=自然主義の理念を対置したものであると一旦は総括する。
その上でマルクスは『ドイツ・イデオロギー』においてこの対置の不充分性を自覚し「哲学」に別れを告げ、その後物質代謝論を使用して資本主義の矛盾をその「攪乱」・「亀裂」と捉え始めたとし、斎藤氏はマルクスのエコロジー思想の世界へ誘っていくのである。
第2章は、マルクスのこの物質代謝論の深化を実際に詳しく後追いしたものである。まず『ロンドン・ノート』でのマルクスの物質代謝の概念規定を紹介し、さらにその後の『経済学批判要綱』においてその用法を一層精緻化していった、と斎藤氏は解説し展開する。
すなわち斎藤氏は、マルクスの資本主義における分析対象は資本蓄積を一義的な目的とする社会システムが構成する人間と自然の特殊な関係性であり、その結果素材的世界における不和や軋轢がいかにして生ずるかに関する具体的な追求であったとするのである。
このような人間と自然の関係における資本主義的な特殊性の把握にこそ、マルクスの物質代謝概念の独自性がある。それ故に本書でこの章の占める位置はたいへん重要である。
第3章では、マルクスのエコロジー論をそもそもマルクスが問題とした原義に立ち返って物象化とは何かを考察し、マルクスの物象化論を体系的に再構築する。この章の核心は、従来のマルクス研究ではあまり着目されてこなかった素材的次元を、マルクスの経済学批判の中心テーマとして解明したことにある。つまり第3章が本書の白眉の部分である。
従来の理解では、『資本論』は資本主義的生産の諸カテゴリーを体系的に叙述しており、マルクスの経済学批判の核心とは「純社会的な形態」を明らかにする物神性批判にあると考えられていたのであるが、斎藤氏はこうした理解に断固として異議を唱える。
すなわちこの章で斎藤氏は、『資本論』の問題意識は資本主義社会の総体性の概念的再構成等ではなく、マルクスが実践的・批判的な唯物論的方法で問題にしたのは経済的形態規定と具体的素材的世界の関連とその矛盾についての分析だ、と指摘したのである。
したがって『資本論』第2部や第3部の完成をそっちのけにしてまで、また晩期のマルクスが驚くほどの情熱をもってなぜ自然科学にのめり込んでいたのかは、リャザーノフらには想定外のことであった。彼らにはまさに全く理解不能の謎であったのだ。そのため、彼らは残されたこれらの抜粋メートにはまったく冷淡な態度を取っていたのである。
かくて斎藤氏は問題の所在を指摘する。すなわちマルクスの『資本論』の内容が体系的に展開されるためには、経済的形態規定がその担い手である自然の素材的次元との緊密な関係の下で考察されなければならない、との極めて具体的かつ積極的な問題提起である。
それは、「素材」は「形態」と並んで経済学批判において重要な役割を果たすということである。この点が従来のマルクス理解の陥穽であり、この視点こそ、マルクスのエコロジカルな資本主義批判の核心である。
このように第3章は、斎藤氏の鋭い問題意識とまたそのことで彼がドイッチャー記念賞を受賞した理由が、実によく分かる展開となっているのである。
本書の第4章から第7章までの短評
第4章は、自然科学についてのマルクスの抜粋ノートを精査する。この作業を経ることによって、よく知られている「資本主義の文明化作用」に対する楽観的な見解を、マルクス自身が訂正する過程を読者が正確に追体験できるような展開になっている。
これらの研究の過程においてマルクスは、リービッヒ『農芸化学』からの抜粋メートの中の「略奪農業」論を受容することにより、人間と自然の物質代謝の意識的で持続可能な管理の重要性をマルクスは明確に意識し、社会主義実現のための実践的課題とみなすようになったのである。
第5章は、『資本論』第1部出版以降の1868年以降もマルクスは自然科学研究に取り組んでいたのだが、従来はそのことを「『資本論』からの逃避」と考えられてきた。
だが斎藤氏は残された抜粋メートそのものを検討する事で、晩年のマルクスの物質代謝論を核心としてその環境思想を、さらに具体的に追想することを可能にしたのである。
第6章は、周知のように『資本論』第1部はマルクスの刊行だが、その第2部・第3部はエンゲルスの編集による刊行である。こうして『資本論』は「体系化」されたのである。
勿論、エンゲルスが自らの日々の生活を支える中での持続的な努力と理論的な困難と苦闘した編集により『資本論』は「体系化」されたのだから、その功績は不滅といえる。
だがその半面、マルクス自身追究過程であった『資本論』のマルクスの「未完の体系」が、エンゲルスがマルクスを理解できた範囲での「閉じられた体系」となったことも事実である。そこで斎藤氏は抜粋ノートを基に「利潤率の傾向的低下の法則」等の再構築を追求する。
ここでも斎藤氏は、この法則への理解は従来の様に「鉄則」としてではなく、例えば久留間学派の金融論研究者である小西一雄氏が特定の条件下では低下しない可能性を排除せず「生きた矛盾」だとした捉え方を高く評価するとともに、この法則の一見矛盾した外見は資本の「弾力性」に依拠するものであり、この法則が究極的には素材的世界の弾力性に基づくものからだ、と鋭く指摘したのである。
すなわち斎藤氏は資本は現実的な、素材的担い手を必要とするのであり、その際限のない価値増殖への欲動は担い手の素材的性質によって不可避的に制約を受け、それゆえ「利潤率の傾向的低下の法則」を単なる数式問題に解消することなく、資本の素材的側面も考察しなければならないとした。
この視点も師匠筋の佐々木隆治氏の影響の下で「素材」は「形態」と並んで重要な概念である、と指摘してきた斎藤氏のまさに独壇場なのである。
第7章では、マルクスのエコロジー思想は若い頃から晩年まで一貫していたが、今でも「エコロジーはマルクス主義の盲点」であり、「マルクスの思想はジェンダーやエコロジーや政治権力を資本主義社会における不平等の構成原理や中心軸として体系的に考慮していない」との誤解が根強い。勿論、これまで公刊されてきた諸著作ではそのように読めることも事実なので、単純に否定はできないことではある。
なぜマルクスのエコ思想は無視ないし誤解されてきたのか
確かにマルクスは長い間誤解されてきた。ではそれは一体なぜなのであろうか。この背景には、ルカーチに端を発する「西欧マルクス主義」の長い伝統がある。彼らは自然科学をエンゲルスの専門領域と見なすことで、マルクスの資本主義社会分析を補完し救済してきたのだが、その代償として当然にもマルクスの自然科学研究を長らく無視してきた。そのため、彼らはマルクスのエコロジー思想そのものを展開できなかったと指摘できる。
そして近年マルクスのエコ思想が明らかになると「西欧マルクス主義」者たちは、それとは逆にエコロジー等の問題は社会主義革命にとって本質的な問題ではない、との詭弁を弄し始めたのである。
こうして彼らに対する反論としてアメリカのフォスターらの『マルクスのエコロジー』等が登場したのだが、残念なことながら彼らもまた膨大に残されているマルクスの抜粋メートを全面的に検討はしていないこともあり、論拠には問題が残った。そのため、フォスターらには長らく恣意的だとの批判がついて回ったのである。
斎藤氏は、抜粋ノートにより「西欧マルクス主義」者たちによって無視されたマルクスの自然科学への取組みを、『資本論』との関連で実際に検討する事によってエコロジー論におけるマルクスとエンゲルスの知的関係と差異を詳細に検討するができたのである。
勿論、エンゲルスは物質代謝の言葉は知っていた。なぜならマルクスが『資本論』の中で使用しているからである。だが彼はマルクスの表現を部分的に書き換える。つまりマルクスと同じ意味での物質代謝論の理解は、残念ながらエンゲルスにはなかったのである。
斎藤氏による本書のまとめ
最後に本書の「はじめに」にある斎藤氏の記述を、本書のまとめとして引用しておく。
21世紀に入ってからマルクスのエコロジーは深刻な環境危機を前にラディカルな左派環境運動によって再び注目されるようになっている。
新自由主義的グローバル資本主義が「歴史の終焉」を掲げて世界を包み込んだ結果、「文明の終焉」という不測の形で惑星規模の環境危機をもたらしたことで、マルクスの有名な警告がいま再び現実味を帯びるようになっているのだ。……。
大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。(メガⅡ/6:273)
ここ[『資本論』の労働日の部分のこと―直注]で直接論じられているのは、労働者の酷使によって彼らの健康や寿命が犠牲になることについて資本がまったく顧慮を払わないという問題である。だが、引用中に出てくる「人口減少」を「気温上昇」や「海面上昇」に置き換えたとしてもなんら違和感がないことだろう。
実際以下で詳しく見るように、マルクス自身も自然の「掠奪・濫用」を労働力の掠奪と同じように問題視し、物質代謝の亀裂として批判していたのである。
残念なことに、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」という態度は、グローバルな環境危機の時代において、ますます支配的になりつつある。
将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に生きるわれわれは大洪水がやってくることを知りながらも、一向にみずからの態度を改める気配がない。とりわけ、1%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、技術開発にも余念がない。……。
いまや、「大洪水」という破局がすべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組みが資本主義との対峙なしに実現されないことは明らかである。つまり大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」からである。
だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想したマルクスは不可欠な理論的参照軸として二一世紀に復権しようとしているのだ。
実に熱い斎藤幸平氏のメッセージではないか。まさに大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」のである。『人新生の「資本論」』及び『ゼロからの『資本論』』を共感を強く持って読んだ貴方には、この斎藤氏のマルクス理解のそもそもの基本となっている『大洪水の前に』の一読をこの機会に是非ともお薦めしたい!