【貼り付け】加藤恭子の17年前の学術研究をどう踏まえているのか | ワーカーズの直のブログ

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  社会科学者の随想2019年08月20日

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【安倍晋三サマの国営放送による「初代宮内庁長官田島道治の過大評価」と,関連していえば,すでに所与である「先行研究・業績」を適切に位置づけていないような報道姿勢】

①「昭和天皇,戦争『反省』の表明望む  宮内庁初代長官が会話記録 1952年式典お言葉,首相反対で削除」(『日本経済新聞』2019年8月20日朝刊32面「社会1」)   

『日本経済新聞』2019年8月20朝刊34面天皇反省記事

 宮内庁の田島道治・初代長官(宮内府長官時代を含め1948~53年在任)が昭和天皇との詳細な会話記録を残していたことが明らかになった。

 天皇は1952年の独立回復式典の「お言葉」で戦争への悔恨と反省の表明を希望していたが,当時の吉田 茂首相の反対で削除された。従来の研究で明らかになっていた事実だが,その経緯がより詳しく記載されている。

 記録は1949年2月から1953年12月の間,田島元長官が昭和天皇とのやりとりを手書きで記録した計18冊の手帳とノート。「拝謁記」と記されており,田島元長官の遺族から資料を入手したNHKの取材班が〔2019年8月〕19日に一部を公開した。記載されている拝謁回数は600回以上に上るという。

 拝謁記にはサンフランシスコ平和条約発効後の1952年5月3日の式典で昭和天皇が述べたお言葉の作成過程が記録されていた。

 昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(1952年1月11日)などと語り,「反省」という文言を盛りこみたいとの意向を繰り返し示していた。

 だが,その後の宮内庁の検討で「反省」の文字が草稿から削除されたうえ,吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」と反対。昭和天皇が希望した戦争への深い悔恨の念を表現した一節がすべて削除された。

 こうした経緯については,田島元長官の日記などを発掘,研究したフランス文学者の加藤恭子氏の「昭和天皇と田島道治と吉田 茂」などの著書ですでに明らかにされている。ただ,お言葉作成過程の詳細なやりとりが明らかになったのは初めて。補注)この「加藤恭子氏の発掘」に対して,こちらの「お言葉作成過程の詳細なやりとりが明らかになった」の意味(意義)は,いったいどの程度に解釈され位置づけられればいいのか,まだ不詳である。

 このほか,冷戦が激しさを増すなか,危機感を募らせた昭和天皇が「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」(1952年2月11日)などと再軍備と憲法改正の必要性に言及したことも記されている。
 天皇はこの考えを吉田首相に伝えようとしたが,天皇を象徴と規定し,政治関与を禁じた新憲法の観点から,田島元長官が「それは禁句であります」といさめたという。
a) 専門家の論評:1「肉声まとまり,超一級の資料 日大教授 古川氏」
 古川隆久・日本大教授(日本近現代史)の話  象徴天皇のあり方を模索する時期の昭和天皇の肉声がまとまっており,超一級の資料だ。戦前・戦中を悔やむ言葉が多く,戦後になっても悔恨や反省が頭のなかをもっとも大きく占めていたと分かる。田島元長官との詳細なやりとりが明らかになったのは新たな発見で,昭和天皇研究で貴重な記録となるだろう。
b) 専門家の論評:2「先行研究が存在,『新事実』」に違和感 放送大教授 原氏」
 原 武史・放送大学教授(日本政治思想史)の話  田島元長官の拝謁記が発掘され,昭和天皇との詳細なやりとりが明らかになった意義は認める。しかし,田島元長官の残した文書については加藤恭子氏の先行研究があり,「新事実」を強調するNHKの報道には違和感がある。先行研究にまったく触れないのは誤解を与えるのではないだろうか。
②「昭和天皇,終戦後の『言葉』 記録文書見つかる」(『朝日新聞』2019年8月20日朝刊1面)「社会」)『朝日新聞』2019年8月20日朝刊天皇裕仁田島記事
 終戦後に宮内庁の初代長官を務めた故・田島道治(みちじ)(1885~1968年)が,昭和天皇との約600回に及ぶ面会でのやりとりを詳述した文書を残していたことが分かった。遺族から入手したNHKが〔8月〕19日,一部を報道各社に公開した。昭和天皇が国民に向けたおことばで戦争への「反省」を表明しようとこだわったことや,改憲による再軍備の必要性に言及していたことなどが記されている。(▼2面=主な発言記録など)補注)日本国憲法に厳密に即していえば,天皇がそのようにして自分の意思を国民たちに向けて表明しようとしたことじたい,実は憲法違反であった。この程度の解釈はごく当たりまえの論点ではあっても,なぜか,憲法学者たちはほとんど指摘も批判もしなくなっている。
 この文書は,1948年に宮内庁(当時は宮内府)長官に任命された田島が,翌1949年2月から退官した1953年12月にかけて昭和天皇とのやりとりを記した手帳やノート計18冊。全体は公開されず,NHKが報道し,遺族の同意を得た部分のみを抜粋して公開した。一部には「拝謁(はいえつ)記」と記されている。

 田島が残した文書としては,2000年代以降,ノンフィクション作家の加藤恭子氏が遺族から日記など資料の提供を受け,著書で発表するなど先行研究がある。今回みつかったのはこれらの資料とは別のものだが,内容に重複があり,昭和天皇の言葉が一問一答に近いかたちで詳しく明らかにされた点が特徴だ。補注)加藤恭子に対してはなぜ,今回みつかった資料が提供されていなかったかという点に興味がもたれる。内容に重複がある点も気になる「なにか」を残している。

 たとえば,サンフランシスコ講和条約発効を祝う1952年5月3日の式典に向け,昭和天皇は田島に「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(1月11日)などと強くこだわった。おことばの草稿に戦争を悔やむ一節が挿入されたのち,吉田 茂首相らの反対で削除されたやりとりも,先行研究より詳細に明らかにされた。

 さらに,昭和天皇が「今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」(1952年2月11日)と述べるなど,憲法改正による再軍備にたびたび言及していたことも初めてわかった。東西冷戦が続くなか,自衛隊は発足しておらず,1952年に前身の警察予備隊が保安隊に改組された。

 補注)以上の記事の字面を追っただけでも,新憲法に規定された「天皇の地位・立場」というもののなかには,初めから矛盾がしこまれていたとしか解釈できない。なにせ,自分自身で話し,考え,発言する「人間の天皇」自身がその象徴になっている。

※ 戦前に戻す意図ない ※
 文書全体を確認した古川隆久・日本大教授(日本近現代史)の話  新憲法下での歩みが始まったばかりの時期に,約5年という長期にわたって昭和天皇の言葉を記録した初めての資料であり,今後の昭和天皇研究の基本的な資料のひとつとなる重要なものだ。
 昭和天皇が改憲による再軍備に言及したことについては,9条のもとでは自衛隊のような組織ももつことができないと考えられていた時代の発言で,防衛力は最低限必要だという考えを示したに過ぎない。他の記述から,昭和天皇は戦前に戻すつもりはまったくなかったことが分かる。(引用終わり)補注)この古川隆久の批評は,まさか,「天皇裕仁がこのように発言していた」当時における戦後日本の政治事情をしらないままなされているとは思えないが,この評言そのものだとかなり,第3者を誤導するおそれがある。なぜ,昭和天皇は当時,「防衛力は最低限必要だという考えを示した」のかと解説されても,この記事を読むだけの人たちにとっては誤導的な発言にならざるをえない。

 なお『朝日新聞』朝刊の報道は,2面もそのほぼ全部を充てて,関連する紙面にしていた。この紙面は画像資料にして概要だけでももらうことにする。

『朝日新聞』2019年8月20日朝刊昭和天皇報道記事

 ところで,『東京新聞』はすでに昨日(8月19日)の夕刊で,当該する記事をさきに掲載していた。記事の紹介として内容が重なるが,こちらも引用しておく。

③「昭和天皇,戦争後悔語れず 『反省』お言葉削除」(『東京新聞』2019年8月19日夕刊,https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081902000266.html

『東京新聞』2019年8月19日夕刊田島道治記事 初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が昭和天皇との詳細なやりとりを記録した資料が〔8月〕19日,公開された。

 昭和天皇は1952年5月に開かれた日本の独立回復を祝う式典で,戦争への後悔と反省の気持を表明しようとしたにもかかわらず,当時の吉田茂首相から反対され,「お言葉」の一節が削除されていたことなど,これまで研究書で指摘されていた内容の詳細が明らかになった。

 田島氏は1948年,宮内庁の前身である宮内府長官に就任,1949年から1953年まで宮内庁長官を務めた。在任中,昭和天皇との会話の内容や様子を手帳やノート計18冊に書き留めていた。田島氏の遺族から資料提供を受けたNHKが公表した。
「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(1952年1月11日)「軍も政府も国民もすべて下克上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるいことがあるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」(1952年2月21日)。
 一方,田島氏から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」「最早戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」として,昭和天皇が国民の前で反省の気持を表明することに反対。吉田氏の意向は田島氏を通じ昭和天皇に伝えられた。
 結局,国民の前で読み上げられたお言葉から,戦争への後悔と反省を表した文言は削除された。
「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」など,敗戦までの道のりを振り返り,後悔する様子も記されていた。(引用部は一部原文のまま)

 ※ 人物紹介 ※ 「たじま・みちじ」は1885年生まれ,愛知県出身。東京帝国大卒,鉄道院総裁の後藤新平の秘書や日銀参与などを経て,1948年に芦田均首相に請われ宮内府(現宮内庁)長官に就任。
 宮内庁に組織改編した1949年から初代宮内庁長官になり1953年まで務めた。皇室の重要事項について天皇,皇后両陛下に助言する参与にも起用された。
 上皇さまが皇太子時代の皇太子妃選考にも一時,かかわった。ソニー会長も務め,1968年に83歳で死去した。

④ 吟味および批判
 以上『日本経済新聞』『朝日新聞』『東京新聞』の各紙が報道したこの「昭和天皇,戦争『反省』の表明望む  宮内庁初代長官が会話記録」(これは『朝日新聞』の見出し:表現)を紹介してみた。
 この記事は,昭和天皇史に関する “新しい史料(資料)の発見” を公表するものだと指摘されていた。すなわち,1948年から「宮内庁長官」を務めていた田島道治が,昭和20年代,講和条約する発効する時期も通して,その間に書き残してきた「1949年2月から退官した1953年12月」までの「昭和天皇とのやりとりを記した手帳やノート計18冊」の存在を明らかにしていた。
 もっとも,全体は公開されず,NHKが報道し,遺族の同意をえた部分のみを抜粋して公開していた。一部には「拝謁(はいえつ)記」と表題がつけられていたという。

 問題の焦点は,宮内庁長官が昭和天皇と日常的に密接に付きあっていた体験を介して,そのやりとりの様子を日記的に残してきた手記(手帳やノート計18冊)だ,ということであった。

 しかし,この史料(資料)は昭和天皇のそばに長く居た宮内庁長官のことばをつづっていたのであり,これだけをもって,昭和20年代史における天皇裕仁の「象徴天皇となった立場」,その言動(政治意識の吐露・表現)の全貌そのものだというふうに把握したら,それこそ不正解の理解になる。政治学からする慎重な再検討を要する論点が控えている。

 ということで,途中ではさみこんで紹介するが『天木直人のブログ』が早速,こういう感想を記していた。

◆ NHKは「拝謁記」をいますぐ国民に公開すべきだ ◆=『天木直人のブログ』2019-08-19,http://kenpo9.com/archives/6233 =

 その後も毎日のようにNHKは昭和天皇の告白を報道しつづけている。その内容も,ますます過激になりつつある。
昨晩のニュースでは昭和天皇が軍隊は必要だと告白していた。今朝のニュースでは東条英機と自分はどちらも事務的であるといって,あたかも相性がいいなどと告白していた。芦田 均は理論で動くが吉田 茂は勘の人だと語っていた。
 驚くべき告白だ。間違いなく第一級の歴史的資料だ。この告白は,初代宮内庁長官が残した昭和天皇とのやりとりである「拝謁記」に収められていたという。驚くのはそのやりとりがなされたタイミングだ。
 昭和天皇は,1952年のサンフランシスコ講和条約発効のさいの独立記念式典で「おことば」を述べられた。その「おことば」の決定稿の草稿を練る過程で発せられた言葉を,宮内庁長官が克明に記録していたのだ。新憲法はとっくに発効していたのだ。補注)この時期に前後する昭和天皇の言動はすでに,ある程度までは解明されている。ちなみに,沖縄県公文書館は,2008年3月25日に「天皇メッセージ」という文書を公開していた。
 それは,米国国立公文書館から収集された文書であり,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じて,シーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモであった。註記)沖縄県公文書館ホームページ「USCAR文書 “天皇メッセージ” 」,  https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
 その1947年9月という時点は,日本国憲法が1946年11月3日公布され,1947年5月3日に施行された以後になる。天皇が象徴天皇に規定されたのち,そう「なってから」の「彼の言動(私的行為)」であった。
 〔天木直人に戻る→〕この驚くべき告白録が67年ぶりにわかったというのだ。それを保管していたのは宮内庁か家族のどちらかだ。どちらが公表に踏み切ったのか。なぜこのタイミングで公表に踏み切ったのか。公表にあたって安倍政権はどう関与していたのか,していなかったのか。
 疑問はつぎつぎと発生する。そしてNHKは,これからもどんどんとその内容を報じていくとニュースのなかで繰り返している。それにもかかわらず,NHK以外のメディアはいっさい報じない。ネタ探しのメディアはどんな下らないニュースでも大騒ぎして報じるのに,この昭和天皇の告白についてはいっさい報じようとしない。補注)NHK以外のマスコミも8月19日あたりから,この新しい話題を報道しはじめた。
 私がしっているくらいだから,政治評論家や有識者は皆知っているはずなのに,誰も語らない。書かない。そう思っていたら,今日8月19日の毎日新聞「風知草」で山田孝男特別編集委員が書いていた。
「終戦記念日前後の報道をすべてチェックしたわけではないが,17日放映のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったか 初公開・秘録『拝謁記』」には感ずるところがあった・・・」と。
 感ずるとはなんだ。仰天したはずだ。どう感じたのか。そのことこそ山田孝男は書くべきだ。いずれにしても,山田孝男はしっていたということだ。ということは皆がしっているということだ。山田孝男がいろいろな感想をもったのだ。ということは皆がそれぞれ感想を抱いたということだ。
 もはやメディアは書かざるをえない。池上彰や佐藤優といった評論を売り物にしている連中は,真っ先に語らなければいけない。そしてNHKは,日替わりのように歴史学者や専門家を変えて,勝手な感想を語らせることをやめて,一刻も早くその全文を国民に公開すべきだ。
 その評価は国民が下さなければいけない。
 夏休み明けの政治の最大の問題は,この昭和天皇の「拝謁記」の国民的評価だ。国会で真っ先に議論さるべき大問題である。

 昭和天皇の言動録に関する資料(歴史的な記録)が,彼とは関係が深い「どこの誰が保管していたもの」にせよ,これが政治利用される余地を残すほかない「シロモノ」だと解釈しておく余地=用心も必要である。とはいえ,都合の悪い部分は,多分公表されないと推測しておくほかない。
 かといって,NHKが特番として放送し,これを追ったかたちで大手新聞が報道していた「昭和20年代史における天皇の言動記録」は,田島道治の家族などがいままで残していた状態で未公開だったその拝謁記だけが,今回において話題になった問題に関連する史料ではない。
 すでに,新聞記事のなかでも触れられていたように,加藤恭子が2002年に公刊していた『田島道治-昭和に「奉公」した生涯-』(TBSブリタニカ)が,関連する専門的な研究書として先行的に与えられていた。この「加藤の著作:業績」は,今回における報道と重複する内容も多くあった。それゆえ,相互を入念に突きあわせるかたちを用意したうえで,さらなる究明がなされねばならない。
 だから,原武史も前段において,こう明確に寸評していたのではなかったか。

 田島元長官の拝謁記が発掘され,昭和天皇との詳細なやりとりが明らかになった意義は認める。しかし,田島元長官の残した文書については加藤恭子氏の先行研究があり,「新事実」を強調するNHKの報道には違和感がある。先行研究にまったく触れないのは誤解を与えるのではないだろうか。

 どういうことかといえば,今回における田島道治の「拝謁記」の発掘以前に,加藤恭子の先行研究が目の前に存在していた。それゆえ,これら両者を慎重に比較検討しておく学的な作業は,マスコミが報道するに当たっても,当然の手順(前提)として要求されている。

 その加藤恭子の『田島道治-昭和に「奉公」した生涯-』2002年は,こういう内容であった。

 「内容説明」
 昭和史発掘に新史料。「田島日記」初公開! 金融恐慌を乗り切るために設立された「昭和銀行」頭取,終戦後もっとも困難な時期の宮内庁長官,発展途上期のソニー会長-昭和史の危機回避と発展に一身を捧げつくした “種播く人” の足跡をたどる。
 「目 次」
   第1部 立志と師友
   第2部 金融恐慌と大戦前夜
   第3部 太平洋戦争
   第4部 宮内庁長官として
   第5部 ソニー時代
   第6部 晩 年

 この加藤恭子の著書『田島道治-昭和に「奉公」した生涯-』のなかにも論及があった点として,あわせて紹介しておくべき文献もある。それは,青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男-「パケナム日記」が語る日本占領-』(新潮社,2011年)である。

 青木冨貴子の同書は,敗戦後史(昭和20年代史)における天皇裕仁の発言に関連させていうとなれば,田島道治「拝謁記」では十分に表現されるはずもない,いいかえれば,憲法(日本国憲法)に違反した行為を,政治・外交面において,裏工作的に画策・実行してきた天皇裕仁の言動にも迫る解明をおこなっていた。

 つまり,昭和天皇は新憲法のなかでいえば,すでに象徴天皇になっていた時期であっても,前述の『日本経済新聞』の記事を借りていえば,「冷戦が激しさを増すなか,危機感を募らせた昭和天皇」が「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」(1952年2月11日)などと,「再軍備と憲法改正の必要性に言及した」のである。

 その事実は,宮内庁長官がそのように「言及した発言」としても,単純には聞き捨てにできない含意ももっていた。この点は,青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男』が,かくべつに論点を集中させて追跡しようとしていた〈歴史の闇〉を示唆する。

 そうした「歴史の事実」についてとくに注目することもなく,「敗戦後史における天皇の『反省』の気持」を報道した本日の『日本経済新聞』や『朝日新聞』などの記事は,昭和20年代史における「天皇裕仁自身による憲法違反の言動録」が,当時における「日米外交の事実史」に対して有していた「闇的な展開」を,わざわざアイマイ化しかねない効用も発揮する。

『天木直人のブログ』が批判しつつ要求するように,「NHKは,日替わりのように歴史学者や専門家を変えて,勝手な感想を語らせることをやめて,一刻も早くその全文を国民に公開すべきだ」というところには,核心の問題が控えているとも解釈できる。

 もしも,NHK側がこの要求に対して全面的に応じ,その史料の全体を公表することになったら,おそらく,天皇裕仁の権威「性」は失墜する可能性が大きい。それだけでなく,彼ももともとは「ただの1人の人間でしかなった」という “当たりまえの事実” も,より鮮明になる。それだけのことである。

 日本では,安倍晋三のカリカチュア(とくに風刺絵)やコラージュ(仏語:collage)はいくらでもあるが,天皇に関するそれになると,とたんにみつけにくくなる。というのは,「菊のタブー・健在なり」という日本的な特殊事情が,厳然として残っているからであった。

 田島道治「拝謁記」(この名称じたいに注目)は,昭和天皇をどのように書いて記録してきたのか。そして,NHKが大々的に特番を組んでその題材をとりあげ放送するに当たっては,『裕仁自身の「戦責問題に関する反省」』に焦点に合わせられており,しかも声高に宣伝するかのようにもして,番組を放送していた。

 以上に指摘してみた諸点についてわれわれの側からは,より慎重な「鑑賞(解釈:受けとめ)の態度」が,基本的な心構えとして確実に準備されておくことが好ましい。

 【追 記】田島道治が宮内庁長官を務めていた時期における昭和天皇の「戦争責任観」(「反省」の件)だけでなく,敗戦以降,死去するまでの半生のなかで,裕仁が天皇としてあの「戦争の時代」をどのように回顧していたか,これを全体的に眺望した議論が肝要である。

 とくに,つぎのような議論も必要である。

 1975年9月22日,昭和天皇は訪米を前に外国人特派員団33人と会見していた。国内報道陣も公式記者会見を強く望み,訪米後の同年10月31日,国内報道陣と史上初の宮中での公式記者会見がおこなわれた。このときの問答の記録は有名である。
 記者の質問に,「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言がございましたが,このことは,陛下が開戦を含めて,戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また,いわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますか」というものがあった。
 これは,ホワイトハウスでフォード大統領主催の晩餐で天皇裕仁が挨拶したとき「私が深く悲しみとする(英文で deplore )あの不幸な戦争の」と述べた部分があり,この日本語訳について解釈がとりざたされていた。もっとも,当時の藤山駐米大使は「ただ “悲しんでいる” という意味である」と説明していた。
 当の昭和天皇は,記者のその質問に対して,「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究していないので,よく判りませんから,そういう問題についてはお答えできかねます」とぎこちなく返答し,そのむずかしい問いをなんとかかわしていた。
 また,記者の「戦争終結にさいし広島に原子爆弾が投下されたことを,どのように受けとめれられましたか」との質問に対して天皇は,「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っております。こういう戦争中のことですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っております」と返答していた。

加藤典洋9条入門表紙 仮にでも,以上の答えが昭和天皇の本心から出た考え方だとしたら,つまり,以上のように1975年にまで至った時点で,昭和天皇が観念していた戦争責任に関する政治意識は,このたび報道されていた「田島道治宮内庁長官が残した『拝謁録』」と比較考量するとき,格段の質的な差異を感得させる。付記)左側画像には,「Amazon 広告」へのリンクあり。

 加藤典洋の最近作『9条入門』(創元社,2019年4月)は,敗戦直後から天皇裕仁が描いてきた「戦責問題」に対する政治意識の評価・分析を,独自に展開していて,興味深い。ところが,敗戦後も30年も経った1975年ごろには,その問題に対する天皇裕仁の気持は,大きく変質していた。

『朝日新聞』2019年8月20日夕刊素粒子裕仁戦線問題