【44】からのつづき
おたかの道湧水園から5分ほど歩くと、武蔵国分寺跡の広々としたエリアに出る。
国家の鎮護を願って建立された全国の国分寺が、どれだけ当時の人々に安寧をもたらしたかを知る術はないが、未だ世界中で繰り返される疫病や紛争、飢餓などに襲われながら、いつの時代も必死に命をつないできた人類の歴史の中で、自分もほんのひととき生を受け、次の世代につないだという空想にも思えてくるような現実を、もう一度見つめ直せと史跡をわたる武蔵野の風がささやいているように感じる。
武蔵国分寺跡を背に、国分寺尼寺を目指して一旦東八道路に出てから府中街道と武蔵野線の高架を横切る。
このあたりは、かつての「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」が南北に一直線に伸びていたあたりで、2キロほど北に上がった西国分寺駅の南側では東山道武蔵路の遺構が1995年に発掘され、一部が遺構展示されている。
東山道武蔵路は、天武天皇の時代に原型ができたとされる「五畿七道」に基づいて整備された主要道路で、奈良~美濃~信濃~上野(群馬)~下野(栃木)~陸奥と伸びる東山道から群馬県太田市で分岐して、武蔵国の国府が置かれていた東京都府中市まで約70キロほぼ一直線に敷かれている。
武蔵国分寺跡から国分寺尼寺跡までは直線距離で500メートルほどだが、東八道路から回り込んで府中街道と武蔵野線を横切ったため15分ほどかかった。
尼寺は、東西約150メートル、南北160メートル以上とされる素掘り溝で囲われた範囲に中門や金堂、尼坊などが配置されていたことが確認されており、現在ではそのエリアの東側に武蔵野線のレールが敷かれている。
近くの黒鐘公園から聞こえてくる国分寺キッズの元気な声に癒されながらひと休みしたのち、西国分寺駅に向けて、こちらの道を北上する。
伝鎌倉街道と呼ばれる古の道で、倒幕を目指し上州から南下した新田義貞軍が、鎌倉幕府軍に押し戻された際に、この坂を上がったと伝わる。
その折に武蔵国分寺に火を放ち敵の攪乱を狙ったというから、切羽詰まった敗走ぶりがうかがえるが、倒幕を果たしたのちに金300両を武蔵国分寺に寄進したというから、義貞が不信心者というわけではないようだ。
程よく疲れた体を国立「鳩の湯」でほぐしてから、レモンサワーで喉を潤した。