こんにちは。
今回は、私が創作したひとつの短い物語をご紹介させてください。
磁器として生まれながら、不完全であるがゆえに捨てられた壺が、
時を経て再び見出され、「翔(しょう)くん」という名前を与えられる。
そんな物語です。
かつて不良品と呼ばれたその壺は、やがて人の心を揺さぶる磁器となり、
その存在は世界へ羽ばたいていきます。
物語の中で描いたのは、
「欠けていても、ゆがんでいても、それが美しさになる瞬間がある」ということ。
壺は、自分で自分の価値を語ることはできません。
でも、誰かがその静けさに目をとめたとき、
そこには深い物語と感動が宿っていたのです。
私たちストレスケアカウンセラーが向き合う人の中にも、
かつて「ものはら」にいたような人がいます。
声なき声に耳を傾け、まだ名づけられていない価値を見出すこと。
それこそが、私たちの役割の一つではないでしょうか。
翔くんの物語が、
「寄り添うとはどういうことか」を、あらためて感じるきっかけになれば幸いです。
翔くん ものはらから生まれた希望
ぼくは、小さな壺。
生まれたのは、今からおよそ四百年前。
日本で初めて磁器が焼かれた時代だった。
まだ誰も知らない“白き器”を目指して、
職人たちが手探りで土をこね、釉薬を試し、窯を焚いた。
その中でぼくも、生まれた。
けれど、ぼくはうまく焼き上がらなかった。
首が少し前に傾き、形もいびつで、どこか頼りない。
「これは売りものにはならないな」
そう言われて、ぼくは“ものはら”不良とされた焼き物たちの捨て場に放り出された。
ものはらは静かだった。
誰も言葉を交わさず、ただ風が吹き、雨が落ち、
やがてぼくは土に埋もれていった。
何かを望むでもなく、何かになろうとするでもなく、
ぼくはただ、不良品として、そこにあった。
時は流れ、土の奥深くで、ぼくの中で何かが静かに変わっていた。
それは目に見える変化じゃなかったけれど、
炎をくぐった記憶と、時の重みが、
少しずつ、ぼくを育てていったのかもしれない。
ある日、誰かがぼくを掘り出した。
手の中に収まるほどの、古びた壺。
首の傾いたぼくを、その人は、まるで宝物を見つけたように抱えた。
その後、ぼくは何人もの手を渡りながら旅をした。
誰もがぼくを大切に扱ってくれたけれど、
名前もなく、ただ“初期伊万里の欠け壺”と呼ばれていた。
そして、2025年、ぼくはある人と出会った。
その人は、ぼくをそっと飾って、静かに語りかけてくれた。
「首をかしげてるね。まるで、何かを想っているみたいだ」
「不完全だけど、それがかえって美しい」
「きみは、飛び立つ準備をしているように見えるよ」
そう言って、その人はぼくに翔(しょう)という名前をくれた。
翔ぶ壺――世界に感動を届ける、静かな力があるって。
ぼくのゆがみは、欠点ではなく個性となり、いびつな形は、誰かの心に届く“物語”になっていた。
あのとき、何者でもなかったぼくが・・・
いまは、見た人の心を揺らす存在になっている。
人は、欠けたところにこそ、やさしさを見つけるのかもしれない。
首をかしげたぼくは、かつては不良品と呼ばれたけれど、
時を経て人の心を揺さぶる磁器となり、世界へ羽ばたいていったのだという。