暖かくなってきました。
モクレンも真っ白な花を満開にしています。
オンライン研修も3年目になりました。
当初は会場に集合できなくなり、対応に苦慮しましたが、
現在では、250~300名の聴講者数に発展しています。
さて、「科学的に免疫を高める方法」に続き、
5月14日は「理不尽に負けない成長法」がテーマです。
自分自身の中にある正しさとどう付き合ってくのか、
一緒に考えていきましょう。
今日は、ヒントとなる「ヨブ記」「歎異抄」「正法眼蔵」
を紹介していきます。
「ヨブ記」は旧約聖書に収められた、智恵文学の一つ。
「歎異抄」は親鸞の没後ほぼ20年から30年後に
唯円によって著したとされている文献の代表的な一つ。
ヨブ記と歎異抄は、
善因善果の因果応報を否定する「ヨブ記」、
絶対的な他者により救われるという「歎異抄」において、
一見対立しているように見える。
しかし、善因善果という人間本位の思想に対する啓示と
歎異抄が示す、絶対的な他者に身をまかせることは
極めて同じ世界観である。
現生における苦しみと現世における宿命的な苦悩は、
超えられるものではない。
そこにあるのは、救いと寛容の世界であり、
慈悲の世界であることが述べられている。
善因善果を理解する上において、
「ヨブ記」も「歎異抄」も人間の分別では、
思いはかることができないことを教えている。
善人だからという人間の基準で「神」や「阿弥陀仏」は
人間を救うわけではない。
なぜなら、それは人間の識別以外の
意志であるからと説いている。
親鸞は人間の救済を、
人知を超える力に求めていることは明白だ。
それは、人知の枠の中では救済が得られないからである。
親鸞は自然と生じる、救われたいという願いを
拠り所に救済の道としているように思える。
自力による救済への諦めであり、
人間にとって自力が無力であるという親鸞の認識でもある。
「ヨブ記」における、ヨブの体験は自力の体験であり、
この自力に対して神はヨブに
一切何も答えようとはしていない。
それは、すでにヨブ自身の中に答えがあることを意味している。
そして、その人生の価値や意味とは、
自分自身の体験には一切無駄なことはなく、
その体験は自分自身の人生を
成長させるためのものであることを教えている。
人は生まれながらにして幸福である。
人は幸福な存在であることは、
死を目前にしている人が気づくことである。
このことを道元の正法眼蔵の修証一如からひも解くと、
人生と幸福は一つである。
幸福の上の人生だから、
生まれて間もない人生が、
そのまま幸福そのもののである。
・・・すでに人生が幸福だから、
幸福に良し悪しはなく、
幸福の上の人生だから、
幸福に始めはないとなる。
また、私たちは自分の能力の及ぶ範囲で
見たり聞いたりしている。
自分の見方こそ正しいのではない。
自分の認識する世界以外に
様々な世界があることを知らなければならない。