修証一如について(基礎課程5章)

 

修証一如についてテキストの解説は、

「実践していることがすでに求めている結果と同じである」

「実践している瞬間こそ素晴らしい成果である」と記している。

一般に何かを高めようとする場合には、

目指すものに向かって上達することが求められるが、

修証一如は、それを否定している。

いったい、修証一如とは何を指しているのだろうか。

ここではテキストの意味を掘り下げていくことにする。

 

修証一如は、修証一等と呼ばれる道元の立場(只管打座)を指している。

道元において「修」と「証」は一つのものなのである。

少し難解であるが、掘り下げていくことにする。

 

修証一如は、証のうえでの修なので、

初心者の修(修行)がそのまま本来の「証」のすべてであり、

「修」の他に「証」を待ちうけてはならないとして、

修がそのままの本来の証を示唆しているに他ならない。

修の証であるから証に終わりはなく、証の修だから修には始まりがない。

 

つまり、「修」という道のりのはてに「証」があるのではなく、

「修」の一歩一歩の積み重ねではなく、そのまま本来の「証」の全体である。

重ねて言えば、証は修の先にあるのではなく、

修の結果として予定された到達点でもない。

「証」は本来のものでありながら、

「修」の歩みを通じてしか現存せず、

その一歩一歩の歩みのうえに絶えず実現され

続けなければならないものである。といった意味である

 

 このことをすこぶる単純化していえば、「本来完成している、だから修行する」

「修行し続けているから完成している」という論理である。

ここで、誤解がないようにしなければならない。

道元のいう「証」とは、頭であれこれめぐらせる観念妄想ではなく、

考える余地などがない不断の修であることだ。

なるほど、道元はやはり考えれば考えるほど難解である。