家族はいつのころからか、「成功」と「幸福」を並べて考えるようになりました。その結果、家族は幸福を語らないようになり、幸福から離れていったように思います。「成功する人物の七つの習慣」は、1990年に初版が発行され、日本でも話題になりました。この著者のコビィは、1776年以降、アメリカで出版された「成功」に関する文献の共通点は「人格」であったと説明し、

次の50年間は「イメージやテクニック」(態度・行動・人間関係)などの対処的な方法だと述べています。そして、彼は、真の成功のためには深いレベルでの誠実さと廉潔を説きます。

 

フロイトおよびユングと並んで現代の心理療法を確立した1人として知られているアドラーは、人間は相対的に劣等感から、優越感を目指して行動しているという個人心理学を確立しました。「嫌われる勇気」で始まった最近のアドラー心理学ブームも成功して幸せになるための方法論として、原因論から目的論へと体系づけられているからでしょう。また、様々な成功哲学の原点となっているジェームスアレンは、1902年に書いた「原因と結果の法則」の中に「自分こそが自分の人生の創り手である」と述べています。つまり、結果としての失敗も成功もその原因は、心の働き次第だと。

 

「ヨブ記」は旧約聖書に収められた、智恵文学の一つです。その中で注目したいものは、信仰篤き人間がなぜ災いを受け、不信で不誠実な人間が安楽に暮している現実問題です。ヨブ記の中には、なぜかこの問題に対する「解答」が示されていません。「ヨブ記」は、人間の作為的な思考を無力なものとして扱っているのです。因果応報である、善因善果、悪因悪果は、神にとっても都合のよい法則であり、人々の信仰の拠り所になるにも関わらず、この問題にあえて疑問を与えるような記述です。

ヨブ記は、ヨブの受難を通じて、因果応報の教理と現実の乖離を痛感し、因果応報の限界と、その根底にある人間中心主義的思想の不遜を暴露しているのです。

 

さらに、哲学者のカントは「成功は偶然の賜物であり、有徳な人が必ずしも幸福になれるわけではない。また、不徳な人が必ずしも不幸になるとは限らない」と哲学者らしく、手厳しいことを述べています。カントは、むしろ有徳な人が有徳であるゆえに苦労しているのに対して、不徳なものが何ら良心の咎めなく安逸をむさぼっているのは、人生の否定できない事実であると結論づけ、人生の目的が成功を得るところにあるとするならば、私たちは理性に従うよりも、むしろ本能に従ったほうがよりその目的を達成することができる」と、まるで、現実社会の様子をカントは言い当てているようです。

老子は、人間の計らいがすべての問題の根源であり、計らいを捨て去り、自然に任せる生き方を述べています。

そして、釈迦は次のように語ります。「およそ苦しみが起きるのは、すべて起動を縁として起きる。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない」(スタッタニパータ、第三 大いなる章744)これは仏教の原理である「縁起」を説いている言葉です。

 

 将来に役立つ内容も変化していきます。視点を広げ、受容力を高めることで、自分や他人を責めるという負のエネルギーを使わなくなり、立ち上がりが早まり、未来への推進力も強化されていきます。分別、作為やはからいを除き、われわれ自身が自然の一部であることを自覚的に信頼することで、望ましい生き方ができるのではないでしょうか。