脳幹的思考は、知的理解では全く意味がありません。
知的理解とは、知っていることで自分自身がなんとなく出来ている、
分かっているという錯覚です。
繰り返しになりますが、「知る」だけでは、本当の意味を得ることができません。
例えば、小学生でも「成長」という言葉を知っています。
しかし、「成長」を理解しているわけではありません。
脳幹的思考をするためには、実践的理解が不可欠になります。
実践的理解とは、「取り組みながら分かる」「経験的にわかる」ということです。
では、どのような取り組み、経験が必要になるのでしょうか。
自分にとって、不快なもの、異質に感じるものに出くわした時に、私たちは、極端になります。
つまり、「戦うか、逃げるか」というストレス反応です。
釈尊は、極端なもの(欲望と苦行「自分を痛めつけること」)を否定しています。
それが「中道」ですが、
中道とは、あいまいでふらふらしていることではなく、
理性による極端さの否定です。
そういう意味で、中道を理解することは、自己受容の理解を深めてくれます。
つまり、中道も自己受容も人生においての究極の目標になります。
「極端でなく、偏らず、ありのまま」とは、上手なあきらめではなく、
限りない自己成長への意思が、偏りを制御してくれるともいえます。
おのれこそ、おのれのよるべ
おのれにおきて だれによるべし
よくととのえられし おのれこそ
まことえがたき よるべをぞえん
釈尊
仏道をならふといふは、
自己をならふ也。
自己をならふといふは、
自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
道元
こので述べられている「法」とは、
善悪は時なり、
時は善悪にあらず
善悪は法なり、
法は善悪にあらず
つまり、極端でないこと。
まことに、正法眼蔵は読み手を選ぶ書です。