人はつい自分の欠点を見つめてしまいます。特に私はそうです。私は自分が普通でないのがわかる普通の自分もいるので、つい普通を求めてしまうのです。
3月18日、私は仕事で失敗を繰り返し、ダメな自分を見つめていました。これまでも仕事で失敗することはありましたが、これまで失敗が続くのはめずらしいというほど失敗しました。と同時に、その失敗を冷静に見つめている自分もいたのです。これまでは失敗に振り回されて感情的になっていたのですが、今日は冷静で不思議な気分でした。
今日は息子の卒業式。この日は私にとっても卒業式だったのに気がつきました。
おそらく、3つの心をバランスよく持っている人が普通の人なのだと思います。スサノオの持つ反骨心、ツキヨミの持つ共感力、アマテラスの持つ善意、これら3つの心です。善意を持った小市民、そんな感じでしょうか。
ただ中には、反骨心だけの人、共感力だけの人、善意だけの人も生まれてきます。それが才能のある人々なのだと思います。これらの人々は単心であるがゆえに強いのです。
私は、この中の反骨心と共感力を持って生まれてきました。ただ私が違っていたのは、反骨心だけの日、共感力だけの日があったということです。だから、私は反骨心だけの日にスサノオの気持ちを理解し、共感力だけの日にツキヨミの心を感じてきました。
これまでの自分は、ダメな自分がイヤでたまりませんでした。そしてダメな自分をなんとかしようとしてきました。もがけばもがくほど、ドツボにはまる自分がいました。しかしそれは今思えば自分を否定することであり、否定された自分からは何も生み出されないことがわかります。自分の座っている座ぶとんを持ち上げようとする行為と一緒だからです。
座ぶとんを持ち上げたければ、いったん座ぶとんから降りればいいのです。ダメな自分を直したければ、いったん自分という我から離れればよいのです。
そのために必要なことは自分を受け入れることです。でもそれがこれまでの私にはできませんでした。それをタマちゃんが気づかせてくれました。ダメでいいのだと。悪でいいのだと。なぜなら、人は「善」を体験するために生まれてきたのだから。「善」を体験するためには、いったん「善」という座ぶとんを降りる必要があるのです。
だから、「ダメ」な自分、「悪」の自分であるのは、「善」の自分を体験する前段階に過ぎないのだとわかったのです。
おそらく、いよいよ「夜明けの時代」がきます。なぜなら今が私が感じている中で最も暗いから。
夜明け前が一番暗いのです。だから「夜明けの輝き」を最も体験できるのです。
ともに「笑顔」と「踊り」で岩戸籠りから「夜明けの時代」へ歩み出しましょう。